2023年11月25日土曜日

読書・須賀敦子全集第5巻 河出文庫 「ウンベルト・サバの詩」


 

 散歩道の木々の紅葉は、もう大分散り始めているのですが、まだ残っているニシキギの葉は、行儀よく並び、かわいらしく風にゆれていました。


      


 須賀敦子全集の5巻にイタリアの詩人のウンベルト・サバの詩が載っていました。サバの詩は須賀さんの本ではじめて知ったのですが、その中でも特にこの詩が好きです。

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娘の肖像

         ウンベルト・サバ  (須賀敦子訳)


毬を手にもった、ぼくの娘は、

空のいろした、おおきな目をして、

かるい夏服を着て、パパちゃん、

と言う。今日はいっしょにおでかけしたいの。

ぼくはつくづく考える。この世でとびきりに

みえる物たちのいったいどれに、ぼくの

娘をたとえるべきか。たとえば、

泡。しろい波がしらの海の泡。青く、

屋根から立ちのぼっては風に散る、けむり。

そして、雲。あかるい空に、かたまっては、くだけ、

くだけては、かたまる、あるかないかの雲。

軽くて、漂う、すべてのものたちに。

・-・-・-・-・-・        引用244p


           オトコヨウゾメの実

 須賀さんは、この詩を2度訳していらっしゃるのですが、わたしはこちらの訳が好きです。特に「パパちゃん」と訳された須賀さんの言語感覚には、脱帽でした。
 
 まりを手に持ち、空の色した大きな目の女の子が、「パパちゃん」とサバに呼び掛けている姿・・、そして、目にいれても痛くないほどの愛情をもって我が子を見つめているサバの姿が目に浮かぶようです。

 世界中のパパの娘に対する愛情が、この詩に凝縮されているようにも思えてくるすてきな詩だと思います。

  サバは、トリエステに生まれた詩人ですが、現代イタリアでウンガレッティとモンターレと並んで三大詩人と言われているとか。

 わたしにとってトリエステは、旧ユーゴスラビアからベネチィアに行くときに、バスに乗り換えて通過したことがある街というだけなのですが、サバが住んでいた街だったのだと思うとなつかしいような特別なところに思えてなりません。


             ノイバラの実


 須賀さんによれば、サバは母親がユダヤ人だったために、第二次世界大戦中は国内を転々として苦労したとのこと・・。彼の詩を読むと、彼の妻や娘、そしてトリエステの街に、かぎりなくやさしい愛情を持っているのがよくわかりますし、平易な言葉で深いものを表現しているところも好きです。

 

            サルトリイバラの実


  サバの詩を、配偶者のペッピーノさんから初めて手渡されて読んだ須賀さんは、それ以来サバの詩のとりこになったようですが、わたしも須賀さん翻訳の彼の詩が好きになりました。

 


2023年11月10日金曜日

読書・「一杯のおいしい紅茶」ジョージ・オーウェル著 中公文庫

 

 ムラサキシキブの実が、あちこちで見られるようになりました。ムラサキシキブとは、実の美しさを紫式部にたとえたネーミングとのことですが、学名の「Callicarpa japonica」のCallicarpaとは、美しい果実という意味だそうですから、なるほどと納得でした。

 散歩道に自生しているムラサキシキブは、渋いむらさき色で、ゆかしい感じがします。




 
  ジョージ・オーウェルの書いた「一杯のおいしい紅茶」を読みました。
    
 彼は二十世紀の英国の作家で批評家ですが、この本は、彼の随筆をまとめた一冊です。題名にもなっている「一杯のおいしい紅茶」という章は、紅茶好きの英国人らしいこだわりが感じられました。

 実はジョージ・オーウェルのおいしい紅茶のいれ方というのは、以前にどなたかの紅茶に関するエッセイで引用されているのを読んだことがあり、ずっと読みたいと思っていた本でした。

 オーウェルは完全な紅茶のいれかたには、ゆずれない11項目があると語っているのですが、それは、以下の11とのこと。

1・紅茶の葉は、インド産かセイロン産にかぎる。

2・かならずポットでいれること。

3・ポットはかならずあたためておくこと。

4・紅茶は濃いことがかんじん。

5・葉はじかにポットにいれること。

6・ポットのほうをやかんのそばに持っていくこと。

7・紅茶ができたあと、かきまわすかポットをよくゆすって葉が底におちつくまで待つこと。

8・カップは浅くて平たいのではなく、ブレックファーストカップつまり円筒形のものを使うこと。

9・ミルクは乳脂分をとりのぞくこと。(濃いミルクではなく普通のミルクということかと思います。)

10・紅茶を先にカップにいれ、次にミルクをいれる。

11・紅茶には砂糖をいれてはいけない。



 彼らしいこだわりだと思いますが、英国に10年近く住んでいた紅茶好きのわたしとしても、彼の考えにほとんど賛成です。

 わたしが英国に住んでいたときには、いつも英国人の友人と1週間に一度、日を決めてお互いの家で交互にteatimeをしていました。

 彼女の家でのteatimeのときには、彼女が使用していたのは茶色の陶磁器のティーポットで、使い込んでいていい感じでした。彼女の紅茶のいれかたはこんな風だったのを覚えています。

・水道からケトルに水をいれて火にかけ、沸騰したら、しばらくの間火を弱めて沸騰させたままにしておく。

・その沸騰したお湯をポットにいれてあたためてから捨て、そこに分量の茶葉をいれ、さきほどの沸騰したままのお湯を注ぐ。

・スプーンでぐるぐるとかきまぜてふたをし、彼女の手編みのティーコーズィをかぶせてしばらくおく。

・カップに注ぐときには、茶こしのようなストレイナーを使い、注ぎ終えたらミルクピッチャーで普通の牛乳をいれてスプーンでまぜ、砂糖なしで飲む。

 いつもそんな感じでした・・・。



 紅茶といっしょに食べたいつも同じの友人の手作りのパウンドケーキの味や、庭を見ながら話した野鳥や植物の話などなど・・。あの午後ののんびりとしたお茶のひとときは、英国生活の忘れられない素敵な思い出になっています。

  生活の中でTEAを楽しむ英国の文化が、ジョージ・オーウェルのいう「一杯のおいしい紅茶」に通じる生活の極意になっているのかもしれません。

 彼はとても英国人らしく、生活の細部にこだわり、それを楽しんでいるというのがよくわかりました。   

 英国の食べ物や、気候のことなど、自虐的なこともユーモアをまじえて書きながら、彼の英国に対する愛がいっぱい感じられる随筆でした。