2024年4月23日火曜日

植物・さくらの季節・・・

 


 私が住んでいるこの辺りの高原で一番に咲く桜は、少し濃いピンク色の「オオヤマザクラ」です。



 山桜よりも少し大きく、花の直径は4.5cmもあり、別名は「エゾヤマザクラ」といいます。



 さくらの短歌といえば、むかしからずっと好きだったのは、与謝野晶子のこの歌です。

      清水へ祇園をよぎる桜月夜   

               今宵逢ふ人みなうつくしき

                                                                          与謝野晶子

 むかし京都に桜を見に行ったことがあるのですが、ちょうどそのときに、円山公園のしだれ桜(祇園しだれ桜)が、満開でした。この満開の桜の上に月が出ていたらすてきだろうなあと思ったのを思い出します。



 最近惹かれるようになったのは、馬場あき子さんのこの短歌です。

    さくら花幾春かけて老いゆかん

           身に水流の音ひびくなり

                    馬場あき子

 桜にかけて、ご自分の人生の老いをみつめていらっしゃるお姿は、凛としていていさぎよく、すてきです・・。



 でもさくらの短歌といえば、やはり西行のこの歌が、いちばん好きかもしれません。

 春風の花を散らすと見る夢は

     さめても胸のさわぐなりけり

                    西行

 西行は出家の身でありながらも、このようなどきっとするような妖艶とさえよめるような歌を残したのは、さすがといつも思います。

 朝日の中で匂うように咲くやま桜を、日本人の大和心にたとえたのは本居宣長ですが、やはりその桜は、白に近い凛としたヤマザクラが正解で、西行のこの歌のような桜は、少しピンク色がかったオオヤマザクラがふさわしいと思ったのでした・・・。






2024年4月6日土曜日

読書・「鴎外の坂」森まゆみ著・中公文庫

 

  4月4日は、二十四節気では、「清明」でした。清明とは、暦を調べてみましたら、「万物が新鮮になり桜花爛漫」と書いてありましたので、やはりその通りの良い季節になったのだと実感しました。

 わたしが住んでいる高原では、桜はまだまだですが、一昨日の散歩では、うすむらさきの春の妖精、「キクザキイチゲ」が春風にゆれて咲いているのを見つけることができました!!!

 清明の日に可憐に咲いていた「キクザキイチゲ」見惚れてしまいました!



  森まゆみさんの書かれた「鴎外の坂」を、読みました。森まゆみさんのお名前は、須賀敦子さんの著書「本に読まれて」の中の須賀さんらしいユニークな書評で知っていたのですが、そのときのご紹介の森さんの本は「抱きしめる、東京 町とわたし」でした。

 今回はその本ではなく、「鴎外の坂」を選んでみました。

 わたしにとってなじみのある東京の坂といえば、住んでいたことのある文京区のなつかしい「胸突き坂」です。名前のようにかなりきつい坂ですが、坂の途中には、芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵もあり、近くには幽霊坂という名前の坂が2つもありますので、文京区は坂の多い町のようです。



 森さんは、鴎外の終の棲家となった観潮楼の近くのお生まれで、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集もなさっていて地域にくわしく、団子坂はもとより、三崎坂、三浦坂、S字坂、無縁坂、芋坂、暗闇坂、などさまざまな坂をご存じなので、鴎外も歩いたであろう坂に親近感を抱かれ、鴎外の坂という題名になさったのかなと思いました。

 森さんは、鴎外の著書や、鷗外のご家族が書かれた本などから、足で歩いてさまざまな検証をなさり、彼女の言葉で書かれているところに、好感を持ちました。




 わたしは、この本の「はじめに」の最初のところが、特に好きです。

「私は昭和二十九年、文京区駒込動坂町三百二十二番地に生まれた。森鴎外がその半生を暮らした本郷区駒込千駄木町二十一番地から歩いて十五分ほどのところである。」

                     引用7p

 森まゆみさんの評伝の目的が感じられ、わくわくしました。評伝はドナルド・キーンさんの「正岡子規」のように、研究者としてのお立場からのものと違い、親しみやすさを感じたからです。森まゆみさんの人生とシンクロする場面では、彼女の人生観も少し見え、お人柄も感じられた評伝でした。

 読み終えた後、団子坂の上にある「文京区立森鴎外記念館」をまた訪ね鴎外の本を再読してみたいと思ったのでした。







2024年3月25日月曜日

読書・「正岡子規」ドナルド・キーン著 角地幸男訳 新潮社

 

 3月も半ばを過ぎ、だいぶ春めいてきたのですが、まだまだ雪が降る寒い日もあります。先日の雪が残る晴れた日に写したヤマユリの実のドライフラワーです。雪をバックにすると、すてきに写すことができました。



 
 ドナルド・キーンさんが書かれた「正岡子規」を再読しました。
 
 いつもさすがキーンさんと思うのは、子規の英語力についての評価でした。子規は自分に英語力がなかったと繰り返し言っていたそうですが、キーンさんは第一高等中学校での子規の英語の答案を読み、「子規の英語力は決して馬鹿にしたものではなかった」と、書かれています。

 子規の書いた英文「Baseo as a Poet(詩人としての芭蕉)」の中で、子規はあの有名な芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」を、こんな風に訳していたそうです。

       The old mere!
                     A frog jumping in,
                     The sound of water.



 子規が亡くなったときには、英語の原書の蔵書として、ミルトン、バイロン、ワーズワースなどの詩の本があり、漱石への手紙には特に感動した英語の詩の引用もしていたとか・・。

 また子規のベースボール好きは有名ですが、キーンさんの推測として大学予備門の友達からこのゲームを教えてもらい、そのあと河東碧梧桐に教えたのではと書かれています。

 子規はベースボール用語の翻訳までし、そのいくつかは現在でもまだ使われているものもあるということですので、驚きました。

 以前に上野公園内にある正岡子規記念球場で見たことのある野球の句碑が、思い出されます。

     ♪春風やまりを投げたる草の原   子規



  
 キーンさんはいまや俳句は、日本のみではなく、アメリカの多くの学校でも教えられていると書かれていますが、そういえばわたしもロンドンに住んでいたころ、知人の英国人に「俳句を作ってみたけれど、どうかしら?」と聞かれたことがあるのを思い出しました。



 
 このように欧米にまで俳句が広まったのは、日本の伝統文化が明治維新後、危機的状況になっていたころ、「ホトトギス」の創刊や「写生」という方法で俳句と短歌を掘り起こして国民的文芸にまで高めた子規の功績をこの評伝で再確認したのでした。

 子規が死の前日に作ったという俳句です。

♪糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな     子規

 子規はユーモアのある俳句も大分作っていますが、この辞世になってしまった句も、自分の姿を諧謔的にみている彼の視点が感じられました。享年は三十五歳だったとか・・。

 

 

 

2024年2月27日火曜日

いつもの朝ごはん・・・


  きょうは、朝日が昇る前の数分間に、バラ色やオレンジ、うすむらさきなど朝焼けに染まったすてきな雲を見ることができました・・。

  



 いつものお気に入りの朝食です。




 *有機全粒ライ麦パンにエクストラバージンオリーブオイル をかける。

 *成分無調整豆乳入り紅茶

 *ブロッコリーと、半熟ゆでたまご

 *りんごとバナナ入り豆乳ヨーグルト

          (ココアパウダー・きな粉 ・すりごま・シナモンパウダー入り)



 

 フランス人の美食家のブリア・サヴァランが、たしかこんなことを言っていたような気がします。

「どんなものを食べているか言ってみて・・。どんな人であるか言い当ててみるから。」

 こんなことを言われたら、困ってしまうのですが、たしかに食べるものは大事だということかもしれませんね・・。

 健康的でおいしいものを、楽しく食べたいというのが、最近のわたしのモットーです。

 

  

  

2024年2月20日火曜日

2024年のひな飾りと、ヘルシーなプチケーキ・・・


 昨日は「雨水」で、あたたかい雨の一日でしたが、きょうも、散歩をしていると、コートなしでも汗ばむほどの、あたたかさでした。

 今年の我が家のひな飾りです。左からつるし雛、うさぎのお雛さま、日本人形、そして小さなお雛さまなどで、日本人形以外は全部わたしの手作りです。





 きょうは、お雛さまを見ながらコーヒータイムをしたのですが、おやつにはこんなものを作ってみました。



 プチケーキのように見えますが、実は蒸したさつまいもを切って、ココアパウダーをまぶしたものです。

 上に苺をのせるとかわいらしいプチケーキになりました。

 こちらは、ブルーベリーをトッピングしたものですが、おひなさまには、苺のほうがかわいくてぴったりかもしれませんね。




 さつまいもと、ココアパウダーと苺やブルーベリーなので、とてもヘルシーで味もおいしく、いっしょにお茶をした方にも好評でした!

  





 





2024年2月14日水曜日

読書・「星の王子さま」再び・・・

 

  2月10日は、冬晴れであたたかく、散歩日和の日でした。那珂川河畔公園では「マンサク」がもう咲いていて、黄色いリボンのようなはなびらが春を告げているようでした。



  先日、NHK・BS世界のドキュメンタリーで、「星の王子さまの誕生」を見ました。

 サン=テグジュベリは、第二次世界大戦中、フランスがドイツと講和するとアメリカに亡命したのですが、すでに高名な作家だった彼は、ニューヨークで、編集者たちに本を書くようにと勧められたようです。

 その本とは童話で、彼自身のイラストも入り、彼が不時着したことのある砂漠での経験や思索から「星の王子さま」が生まれたのでした。



「星の王子さま」の作者のサン=テグジュペリは、「夜間飛行」や「人間の大地」も書いており、その2冊も大好きな本ですが、わたしにとってはなぜか「星の王子さま」は、特別の本に感じられます。

 ドキュメンタリーを見たのをきっかけに、また読んでみました。

 王子さまの星に咲いているたった1本のばらは、だいじな愛する人であり、砂漠に住むキツネとの出会いは、絆を結ぶことの大事さ、

 そして、いちばん大切なことは、目にみえないという深い思索は、彼のこころの声で、いちばん言いたかったことなのだというのが、今回もまたひしひしと伝わってきました。



 君は君のばらに責任があり、ぼくはぼくのばらに責任がある・・これもいろいろな意味に受け取れる言葉です。

 サン=テグジュペリの友人はこのばらについて、「トニオ(サン=テグジュペリ)はフランスというばら、自由というばらを守ろうとしたのだ・・」と言っていたのが、印象的でした・・。



 1943年の4月6日に「星の王子さま」は出版されるのですが、その直前にサン=テグジュペリは、空軍に入り、翌年の1944年7月31日に偵察飛行にでかけたまま、行方不明になってしまったのです・・・・・。

 やはり、テグジュペリは、友人が言ったように、フランスというばら、自由というばらを守りたかったのかもしれません。

 王子さまの星に咲いているたった1本のばらを、特別な存在として大事に思っている王子さまの心情には、いつも共感してしまいます。

 読む人の思索がどこまでも広がっていくような「星の王子さま」は、やはり名作なのだと実感した読書でした・・。

 



 



2024年1月30日火曜日

1月の風物詩・・・ヤママユとまゆ玉・・

 

 この季節に散歩をしていると、ヤママユが、ヤマツツジの枝などに下がっているのを見つけることがあります。これは昨年の12月ころの写真ですが、まだかすかにきみどり色が残っています。



 ヤママユは日本在来の「ヤママユガ」が作るまゆで、このヤママユから絹糸が作れるとのこと。

  1月に入りますと、次第にこんな感じになってきます。



 きょうのヤママユです。



 大分、まゆらしくなってきました。まわりの糸をより集めて、絹糸にするというのがよくわかります。このまゆから作る絹糸は、カイコの絹糸よりも光沢があってさらにやわらかく最高級のものができるということです。

 養蚕の歴史を調べてみるととても古く、起源は中国で、日本へは弥生時代に入り、7~8世紀に日本各地に広まったとか。明治から昭和初期にかけて、生糸の輸出産業が盛んになったということですので、養蚕は大事なものだったようです。

 養蚕農家のカイコとは違いヤママユは、日本在来のものですので貴重な存在なのですね。

 1月15日は、小正月でしたが、以前には養蚕農家では、まゆ玉を飾ったとか。地方によっては名前や飾りもいろいろ違うようですが、絹糸を大事に作っていたころの美しい風習のように感じます。

 うちでも小正月のころは、手作りの「まゆ玉」をいつも飾るのですが、今年はこんな風でした。






 小正月のインテリアとして、毎年、楽しんでいるのですが、残したい風物詩のような気がします。




 

読書・「霧のむこうに住みたい」須賀敦子著 河出書房新社

 

 昨年の暮れに見つけた貴重なノササゲの実です。よく見るとさやからはみ出た実が健気についているのですが、さやの部分にかすかに残っているむらさきの色がすてきです!

   


 先日、須賀敦子全集の8巻の年譜を読んでいましたら、須賀さんが亡くなられる少しまえ、「いままで自分の書いたなかで「霧のむこうに住みたい」がいちばん好きな気がする」と言われたと書いてあるのをみつけ、早速読み直してみました。

 手持ちの本は2003年初版の河出書房新社の単行本ですが、未収録だったエッセイを中心にまとめた一冊で最後の作品集とのことです。

 今回再読して、わたしがこころに残ったエッセイは、二つあったのですが、一つは、ナタリア・ギンスブルグとの出会いのことを書いたエッセイ「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」でした。

 須賀さんが、作家の須賀敦子さんになられたすべてのはじまりは、このナタリア・ギンスブルグが書いた本「ある家族の会話」との出会いからで、その本を須賀さんに手渡してくださったのは、パートナーのペッピーノさんだったのです。

 須賀さんは、ナタリア・ギンスブルグの自伝的なこの本のことを、家族のことを書く手法も、文も自然体で見事だと感服なさり、日本語に翻訳してみたいと思われたとのこと。

 わたしも以前に、須賀さん翻訳の「ある家族の会話」を読んだのですが、内容が興味深くおもしろかったのはもちろんですが、何よりも須賀さんの翻訳もすばらしいと感じたのを思い出しました。

 須賀さんが二度目にナタリア・ギンズブルグの家を訪問なさったときに印象に残ったのは、居間にいた巨大な猫の「ココロ」で、名前の由来は、この猫の最初の持ち主のモランティという人が、漱石の小説の「こころ」が気に入りつけた名前だったというのも、好きなエピソードでした。 




 
 心に残った二つ目のエッセイは、タイトルにもなっている「霧のむこうに住みたい」で、ペルージャで過ごされた夏のできごとが書かれていました。
 須賀さんが大学の仲間と、マイクロ・バスでノルチャというところに行かれたとき、途中下車して寄ったさびしい峠にある石造りのバーで、羊飼いの寡黙な男たちがワインを飲んでいたのを見られたのだとか・・。

 こまかい雨が吹き付ける峠からバスにもどるとき、石造りの小屋が霧の中にぽつんとたたずんでいたのをご覧になり、ご自分が死んだときにこんな景色のなかにひとりで立っていて、誰かが迎えにきてくれるのを待っているような気がしたのだとのこと・・。

 須賀さんは、その旅の途中に立ち寄っただけの霧の流れる峠が忘れられないと書かれているのですが、読んでいるわたしにも目に浮かぶようなさびしい光景でした・・。

 須賀さんにとってのそんな霧の風景は、彼女のイタリアでの生活のすべての原点だったミラノの霧にも通じるものがあったからなのではと、わたしには思えたのですが・・。


 






 

 

   

2024年1月6日土曜日

読書・「もう一度読みたい宮沢賢治」 宝島社

 

  

 昨年末には、こんな感じだった散歩道の雪も、元日にはすっかりとけてしまいあたたかく穏やかな2024年の新年を迎えることができました。

 わたしが好きな散歩道の風景ですが、やはり冬がいちばん好きです。そこにはいつもコナラやヤマツツジの雑木林があり、水色の空に浮かぶ真っ白の雲はゆるやかに流れ、透き通った凛とした冷たい風がいつも吹いています。



 昨年末から新年にかけて、「宮沢賢治」を久しぶりに読み返していました。ブラックユーモアのある彼の童話も好きですが、賢治の詩は、子供のころから好きで、特に、妹とし子との永遠の別れをうたった「永訣の朝」は、いまでもむかし感じたように、読み返すたびに、いつも胸がきゅんとしてしまいます。

 宝島社の「もう一度読みたい宮沢賢治」の中の「永訣の朝」を引用してみます。



・-・-・-・-・-・

 永訣の朝

   

   けふのうちに

   とおくへいってしまふわたくしのいもうとよ

   みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   うすあかくいっそう陰惨(いんざん)な雲から

   みぞれはびちょびちょふってくる

      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた

   これらふたつのかけた陶椀に

   おまへがたべるあめゆきをとらうとして

   わたくしはまがったてっぽうだまのやうに

   このくらいみぞれのなかに飛びだした

      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

   みぞれはびちょびちょ沈んでくる

   ああとし子

   死ぬといふいまごろになって

   わたくしをいっしゃうあかるくするために

   こんなさっぱりした雪のひとわんを

   おまへはわたくしにたのんだのだ

   ありがたうわたしのけなげないもうとよ

   わたくしもまっすぐにすすんでいくから

      (あめゆじゆとてちてけんじゃ)

   はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから

   おまへはわたくしにたのんだのだ

   銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの

   そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・

   ・・・・・ふたきれのみかげせきざいに

   みぞれはさびしくたまってゐる

   わたくしはそのうへにあぶなくたち

   雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち

   すきとほるつめたい雫(しずく)にみちた

   このつややかな松のえだから

   わたくしのやさしいいもうとの

   さいごのたべものをもらっていこう

   わたくしたちがいっしょにそだってきたあひだ

   みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも

   もうけふおまへはわかれてしまふ

   (Ora Orade shitori egumo)

   ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ  

   あぁあのとざされた病室の

   くらいびゃうぶやかやのなかに

   やさしくあをじろく燃えてゐる

   わたくしのけなげないもうとよ

   この雪はどこをえらばうにも

   あんまりどこもまっしろなのだ

   あんなおそろしいみだれたそらから

   このうつくしい雪がきたのだ

      (うまれでくるたて

       こんどはこたにわりゃのごとばかりで

       くるしまなあよにうまれてくる)

   おまへがたべるこのふたわんのゆきに

   わたくしはいまこころからいのる

   どうかこれが天上のアイスクリームになって

   おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

   わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ

   ・-・-・-・-・-・  引用 329p~331p



  この詩をはじめて読んだのは、いつの頃だったのでしょうか・・。涙が出てしまったのを思い出します。それ以来、いままでに何度読んだことでしょう。そしていまでも読むたびに胸がきゅんとしてしまいます。

 この詩には、賢治のとし子さんに対する愛がぎゅっと詰まっていて、彼の詩人としての才能を、読むたびに感じます。

 賢治の方言を入れた独時の言葉遣いのほかにも、自分のことをいつも「わたし」ではなく「わたくし」ということ。

 雪のひとわんを入れる茶碗には青いじゅんさいのもようがついていたこと。

 雪をとった松の葉の香りのことを、たしか別の詩の「松の針」では、さわやかな「ターペンタイン」の匂いと言っていることなどは、読み直すたびに、いつも思い出すことです。

 そして、妹のとし子のことを、けなげな妹、やさしい妹と、たたえているのですが、何よりもそのけなげでやさしい証明として、死の間際に賢治の一生をあかるくするために、雪のひとわんを願ったと詠っているのです。

 その「あめゆじゆとてちてけんじや」という言葉を、賢治は詩のなかで4回も繰り返しています。


          ウサギの足跡・・


 とし子は、岩手の花巻から東京の「日本女子大学」に行き、故郷にもどってからは、女学校の教師として働いていました。当時としは、とても優秀で宮沢家の自慢の娘であり、賢治にとっては、信仰まで同じだった唯一無二の存在で、かけがえのないやさしい妹だったのだと思います・・・。

 この本は、いつも再読するたびに、宮沢賢治と彼の作り上げた独時の世界を思い出すことができるなつかしい一冊になっています・・・。




追記

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 今回宝島社の「永訣の朝」を読んで気がついたのですが、手持ちの角川文庫の「宮沢賢治詩集」中村稔編とでは、少し相違点があるのを見つけました。

 宝島社の詩では「天上のアイスクルーム」と書かれているところが、「宮沢賢治詩集中村稔編」角川文庫では、「兜率の天の食」と、なっていました。

 北海道大学のある論文によれば、賢治は最初、「天上のアイスクリーム」としたのですが、後に作品の完成度をねらって、「兜率の天の食」に変更したとのことです。

 宝島社の「永訣の朝」は、「天上のアイスクリーム」になっているのですが、この論文によれば、テキストとしてはこちらの方が、わかりやすくて良いのではということでした。

 詩は、言葉がいのちですが、わたしも賢治が最初に書いたという「天上のアイスクリーム」のほうが好きです・・。

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