2024年1月30日火曜日

1月の風物詩・・・ヤママユとまゆ玉・・

 

 この季節に散歩をしていると、ヤママユが、ヤマツツジの枝などに下がっているのを見つけることがあります。これは昨年の12月ころの写真ですが、まだかすかにきみどり色が残っています。



 ヤママユは日本在来の「ヤママユガ」が作るまゆで、このヤママユから絹糸が作れるとのこと。

  1月に入りますと、次第にこんな感じになってきます。



 きょうのヤママユです。



 大分、まゆらしくなってきました。まわりの糸をより集めて、絹糸にするというのがよくわかります。このまゆから作る絹糸は、カイコの絹糸よりも光沢があってさらにやわらかく最高級のものができるということです。

 養蚕の歴史を調べてみるととても古く、起源は中国で、日本へは弥生時代に入り、7~8世紀に日本各地に広まったとか。明治から昭和初期にかけて、生糸の輸出産業が盛んになったということですので、養蚕は大事なものだったようです。

 養蚕農家のカイコとは違いヤママユは、日本在来のものですので貴重な存在なのですね。

 1月15日は、小正月でしたが、以前には養蚕農家では、まゆ玉を飾ったとか。地方によっては名前や飾りもいろいろ違うようですが、絹糸を大事に作っていたころの美しい風習のように感じます。

 うちでも小正月のころは、手作りの「まゆ玉」をいつも飾るのですが、今年はこんな風でした。






 小正月のインテリアとして、毎年、楽しんでいるのですが、残したい風物詩のような気がします。




 

読書・「霧のむこうに住みたい」須賀敦子著 河出書房新社

 

 昨年の暮れに見つけた貴重なノササゲの実です。よく見るとさやからはみ出た実が健気についているのですが、さやの部分にかすかに残っているむらさきの色がすてきです!

   


 先日、須賀敦子全集の8巻の年譜を読んでいましたら、須賀さんが亡くなられる少しまえ、「いままで自分の書いたなかで「霧のむこうに住みたい」がいちばん好きな気がする」と言われたと書いてあるのをみつけ、早速読み直してみました。

 手持ちの本は2003年初版の河出書房新社の単行本ですが、未収録だったエッセイを中心にまとめた一冊で最後の作品集とのことです。

 今回再読して、わたしがこころに残ったエッセイは、二つあったのですが、一つは、ナタリア・ギンスブルグとの出会いのことを書いたエッセイ「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」でした。

 須賀さんが、作家の須賀敦子さんになられたすべてのはじまりは、このナタリア・ギンスブルグが書いた本「ある家族の会話」との出会いからで、その本を須賀さんに手渡してくださったのは、パートナーのペッピーノさんだったのです。

 須賀さんは、ナタリア・ギンスブルグの自伝的なこの本のことを、家族のことを書く手法も、文も自然体で見事だと感服なさり、日本語に翻訳してみたいと思われたとのこと。

 わたしも以前に、須賀さん翻訳の「ある家族の会話」を読んだのですが、内容が興味深くおもしろかったのはもちろんですが、何よりも須賀さんの翻訳もすばらしいと感じたのを思い出しました。

 須賀さんが二度目にナタリア・ギンズブルグの家を訪問なさったときに印象に残ったのは、居間にいた巨大な猫の「ココロ」で、名前の由来は、この猫の最初の持ち主のモランティという人が、漱石の小説の「こころ」が気に入りつけた名前だったというのも、好きなエピソードでした。 




 
 心に残った二つ目のエッセイは、タイトルにもなっている「霧のむこうに住みたい」で、ペルージャで過ごされた夏のできごとが書かれていました。
 須賀さんが大学の仲間と、マイクロ・バスでノルチャというところに行かれたとき、途中下車して寄ったさびしい峠にある石造りのバーで、羊飼いの寡黙な男たちがワインを飲んでいたのを見られたのだとか・・。

 こまかい雨が吹き付ける峠からバスにもどるとき、石造りの小屋が霧の中にぽつんとたたずんでいたのをご覧になり、ご自分が死んだときにこんな景色のなかにひとりで立っていて、誰かが迎えにきてくれるのを待っているような気がしたのだとのこと・・。

 須賀さんは、その旅の途中に立ち寄っただけの霧の流れる峠が忘れられないと書かれているのですが、読んでいるわたしにも目に浮かぶようなさびしい光景でした・・。

 須賀さんにとってのそんな霧の風景は、彼女のイタリアでの生活のすべての原点だったミラノの霧にも通じるものがあったからなのではと、わたしには思えたのですが・・。


 






 

 

   

2024年1月6日土曜日

読書・「もう一度読みたい宮沢賢治」 宝島社

 

  

 昨年末には、こんな感じだった散歩道の雪も、元日にはすっかりとけてしまいあたたかく穏やかな2024年の新年を迎えることができました。

 わたしが好きな散歩道の風景ですが、やはり冬がいちばん好きです。そこにはいつもコナラやヤマツツジの雑木林があり、水色の空に浮かぶ真っ白の雲はゆるやかに流れ、透き通った凛とした冷たい風がいつも吹いています。



 昨年末から新年にかけて、「宮沢賢治」を久しぶりに読み返していました。ブラックユーモアのある彼の童話も好きですが、賢治の詩は、子供のころから好きで、特に、妹とし子との永遠の別れをうたった「永訣の朝」は、いまでもむかし感じたように、読み返すたびに、いつも胸がきゅんとしてしまいます。

 宝島社の「もう一度読みたい宮沢賢治」の中の「永訣の朝」を引用してみます。



・-・-・-・-・-・

 永訣の朝

   

   けふのうちに

   とおくへいってしまふわたくしのいもうとよ

   みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   うすあかくいっそう陰惨(いんざん)な雲から

   みぞれはびちょびちょふってくる

      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた

   これらふたつのかけた陶椀に

   おまへがたべるあめゆきをとらうとして

   わたくしはまがったてっぽうだまのやうに

   このくらいみぞれのなかに飛びだした

      (あめゆじゆとてちてけんじや)

   蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

   みぞれはびちょびちょ沈んでくる

   ああとし子

   死ぬといふいまごろになって

   わたくしをいっしゃうあかるくするために

   こんなさっぱりした雪のひとわんを

   おまへはわたくしにたのんだのだ

   ありがたうわたしのけなげないもうとよ

   わたくしもまっすぐにすすんでいくから

      (あめゆじゆとてちてけんじゃ)

   はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから

   おまへはわたくしにたのんだのだ

   銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの

   そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・

   ・・・・・ふたきれのみかげせきざいに

   みぞれはさびしくたまってゐる

   わたくしはそのうへにあぶなくたち

   雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち

   すきとほるつめたい雫(しずく)にみちた

   このつややかな松のえだから

   わたくしのやさしいいもうとの

   さいごのたべものをもらっていこう

   わたくしたちがいっしょにそだってきたあひだ

   みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも

   もうけふおまへはわかれてしまふ

   (Ora Orade shitori egumo)

   ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ  

   あぁあのとざされた病室の

   くらいびゃうぶやかやのなかに

   やさしくあをじろく燃えてゐる

   わたくしのけなげないもうとよ

   この雪はどこをえらばうにも

   あんまりどこもまっしろなのだ

   あんなおそろしいみだれたそらから

   このうつくしい雪がきたのだ

      (うまれでくるたて

       こんどはこたにわりゃのごとばかりで

       くるしまなあよにうまれてくる)

   おまへがたべるこのふたわんのゆきに

   わたくしはいまこころからいのる

   どうかこれが天上のアイスクリームになって

   おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

   わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ

   ・-・-・-・-・-・  引用 329p~331p



  この詩をはじめて読んだのは、いつの頃だったのでしょうか・・。涙が出てしまったのを思い出します。それ以来、いままでに何度読んだことでしょう。そしていまでも読むたびに胸がきゅんとしてしまいます。

 この詩には、賢治のとし子さんに対する愛がぎゅっと詰まっていて、彼の詩人としての才能を、読むたびに感じます。

 賢治の方言を入れた独時の言葉遣いのほかにも、自分のことをいつも「わたし」ではなく「わたくし」ということ。

 雪のひとわんを入れる茶碗には青いじゅんさいのもようがついていたこと。

 雪をとった松の葉の香りのことを、たしか別の詩の「松の針」では、さわやかな「ターペンタイン」の匂いと言っていることなどは、読み直すたびに、いつも思い出すことです。

 そして、妹のとし子のことを、けなげな妹、やさしい妹と、たたえているのですが、何よりもそのけなげでやさしい証明として、死の間際に賢治の一生をあかるくするために、雪のひとわんを願ったと詠っているのです。

 その「あめゆじゆとてちてけんじや」という言葉を、賢治は詩のなかで4回も繰り返しています。


          ウサギの足跡・・


 とし子は、岩手の花巻から東京の「日本女子大学」に行き、故郷にもどってからは、女学校の教師として働いていました。当時としは、とても優秀で宮沢家の自慢の娘であり、賢治にとっては、信仰まで同じだった唯一無二の存在で、かけがえのないやさしい妹だったのだと思います・・・。

 この本は、いつも再読するたびに、宮沢賢治と彼の作り上げた独時の世界を思い出すことができるなつかしい一冊になっています・・・。




追記

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 今回宝島社の「永訣の朝」を読んで気がついたのですが、手持ちの角川文庫の「宮沢賢治詩集」中村稔編とでは、少し相違点があるのを見つけました。

 宝島社の詩では「天上のアイスクルーム」と書かれているところが、「宮沢賢治詩集中村稔編」角川文庫では、「兜率の天の食」と、なっていました。

 北海道大学のある論文によれば、賢治は最初、「天上のアイスクリーム」としたのですが、後に作品の完成度をねらって、「兜率の天の食」に変更したとのことです。

 宝島社の「永訣の朝」は、「天上のアイスクリーム」になっているのですが、この論文によれば、テキストとしてはこちらの方が、わかりやすくて良いのではということでした。

 詩は、言葉がいのちですが、わたしも賢治が最初に書いたという「天上のアイスクリーム」のほうが好きです・・。

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