2019年6月27日木曜日

アジサイの季節・・




 先日、六義園にアジサイを見に行ってきました。六義園は、木々の緑が目にやさしく、ブルーのアジサイが、ひときわすてきに輝いていました。




 入口のところに「オタクサ」と書かれた青い手まり型のアジサイの鉢植えが、置かれていました。




 シーボルトが日本人女性のお滝さんから名前をとってアジサイにオタクサという名前をつけたのは知っていたのですが、このような日本原産のアジサイからヨーロッパでは、品種改良されたセイヨウアジサイが生まれたのだとしみじみと、見てしまいました。





 家に戻ってから調べてみると、シーボルトがこの花にオタクサと名前をつけた以前に、すでに別の人によって学名が記載されていたようで、いまではもうこのオタクサという学名はないということです。でもオタクサという名前は、シーボルトのお滝さんへの想いが込められているようで、なぜかロマンを感じました・・。

 



 シーボルトよりも100年ぐらい前に、中国から(日本のアジサイ)を、イギリス人がキューガーデン(キュー植物園)に持ち込んだということですから、イギリス人の植物熱もすごかったのですね。現代でも、プラントハンターは活躍しているようですが・・。




 六義園のアジサイを見ていると、いろいろなことが想像され、夢が広がっていくようでした。日本固有のアジサイは、やはり梅雨のこの季節に似合う花なのですね。














2019年6月9日日曜日

読書・「紅茶と薔薇の日々」森茉莉   早川茉莉編




 「紅茶と薔薇の日々」森茉莉 早川茉莉編 ちくま文庫 を、読みました。
   以前に、森茉莉ファンだったわたしは、
      先日、仙台の丸善に寄ったときに、
           タイトルに惹かれて、
             なつかしくなり、
              つい買ってしまった本です。




  森茉莉さんの書かれたものでは、何と言っても「父の帽子」という
   エッセイを集めた本の中の「幼い日々」が、
      胸がきゅんとなるほど、好きな文章です。
 




    このような幸せな子供時代を過ごすことができた茉莉さんは、
         その後の人生でも、
     楽しみを見つけることが上手な人生の達人になられたようです。




    この「紅茶と薔薇の日々」は、早川茉莉さんが選んだ
      森茉莉さんの食に関するエッセイを集めたものです。
         本の中で、森茉莉さんは、
     「日日の中の愉しさ」は、「詩」であると言われていますが、
          彼女らしいすてきな表現だと思いました。
    



     たとえば、
      銀色の鍋の中で泡立つ湯の中の白い卵を見ていると、
          歌いたくなったり、
       海の色のようなガラスのびんを見ていると、
         ボッチチェリの画の海の色が浮かんできたり・・・
                    などなど。




          日日の中の愉しさは、詩である。

         食や身の回りの詩を発見して、楽しむこと、
     「紅茶と薔薇の日々」とは、そういうことなのかもしれませんね。





2019年6月7日金曜日

ワーズワースのカッコーの詩




 今年初めてカッコーのなき声を聞いたのは、5月26日でした。朝早く庭に出た時に、遠くの方でかすかに「カッコー」とないているのが聞こえてきたのです。
 わたしはこの季節にはいつも「カッコー」の初めてのなき声を聞くと、とてもうれしくなり、こころがワクワクしてきます。



 カッコウの声をもう少し身近で聞いてみたいと思い、昨日は標高の高いところにある牧場まで行ってきました。
 さわやかな風の吹き渡る高原は、見ているだけでも気持ちが良かったのですが、思っていた通りカッコーのなき声が、広い牧場に響き渡っていました・・。




 ワーズワースの詩に 「To the Cuckoo」「郭公に」という、わたしの気持ちを歌っているような、すてきな詩があります。その詩の最初のところで、ワーズワースは、はじめてなくカッコーのことを「O  BLITHE  New-comer !」と、言っています.
  「こころが浮き立つような新しく来たお客さま」なのですね!!!





   日本語訳は、彌生書房出版の世界の詩37「ワーズワース詩集」に前川俊一訳が出ていますので、引用させていただきます。



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「郭公に」
             ウィリアム・ワーズワース  前川俊一訳

おう、快活な新来の客よ、かってきいた君の声を
いま聞いて僕はうれしい。
おう、郭公よ、君を鳥と呼ぼうか
それとも君はさまよえる声か。

僕が草上にねそべっていると
君の二声(ふたこえ)の叫びがきこえて来る。
丘から丘へとその声はすぎ行くようだ。
ここかしこ、いたるところに。

日光と花の便りを
谷間に喋りつづけるだけでなく
郭公よ、君は僕に
幻ゆたかなりし日を語ってくれる。

ようこそ見えた、春の寵児よ。
君はいまもって、僕にとっては
鳥でない。目に見えぬあるものだ。
声だ、神秘だ。

私が学童の時分に
耳すませたのと同じ声だ。
藪を、木を、空を、ここかしこ見廻らせた
あの呼び声だ。


君を捜そうとして、僕はよく
森や野をたずねあるいた。
君はいつも希望であり、愛であった。
常にしたわれながら、姿を見せぬものだった。

僕はいまでも君に耳かたむけられる。
原っぱに寝そべって
耳すませていると、いつしらず
幼なかりし日の喜びがよみがえって来る。

鳴呼、しあわせの鳥よ、僕等のあゆむ大地が
まぼろしの仙女国であるかのような
感じがまざまざと蘇って来るのだ。
それこそ君にふさわしい住家だ。
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 引用 「ワーズワース詩集」 前川俊一訳 彌生書房 115p~117p



 前川俊一さんは、「O Blessed Bird!」を、「しあわせの鳥」と訳していらっしゃいますが、わたしにとってもカッコーは、鳴き声を聞くだけで、しあわせな気分になれる鳥なのかもしれません・・。