2019年7月30日火曜日

美術館・「マリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展」


 



 丸の内にある三菱一号館美術館に、「マリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展」を
見に行ってきました。




 この赤いレンガ作りの美術館の入り口前は、すてきな広場になっていて、好きな場所です。暑い夏の午後の陽ざしが木々の影を、少し揺らしていました・・。




     プルーストの「失われた時を求めて」には、主人公の恋人のアルベルチーヌが着ていたフォルチュニの青と金の部屋着やダークブルーのコートが、出てきます。そのアラビア風の装飾の部屋着は、主人公にヴェネツィアを、想起させるのでした。そんなフォルチュニのドレスとはどんなものだったのか、そしてそのドレスを作った人は、どんな人だったのでしょうか。




 デザイナーの名前は、「MARIANO FORTUNY」です。このマリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展では、フォルチュニと書かれていたのですが、小説の中では、フォルトゥーニとなっていました。

 フォルチュニは、1871年にスペインのグラナダで生まれています。その後、画家の父のアトリエのあるローマに住み、父の死後はパリに住んで画の勉強をしていたようです。17歳のとき、ヴェネツィアに移住した後は、ワーグナーのオペラの場面などの製作や、フォルチュニの型の製作も始め、テキスタイルのプリント工房をかまえて、「デルフォス」と呼ばれる絹のプリーツを、開発したようです。




 フォルチュニの軽くてしなやかな「デルフォス」と呼ばれる絹の繊細なプリーツを施した生地のドレスは、紫や緑、アイボリー、錆びた朱色や、黒などが展示されていて、見事でした。 いまでも充分に着ることができるデザインだと、思いました。上記の写真の左の内側のドレスと真ん中の黒のドレスがそうです。右は、ステンシルプリントと絹ベルベットのフード付きケープですが、多分アルベルチーヌの着ていたコートもこんな感じだったのかなと、想像しました。




 フォルチュニとプルーストは、1871年と同じ年に生まれていますので、ほとんど同じ時代を生きたようです。フォルチュニはデザイナーとしてだけではなく、版画家、舞台芸術家、写真家でもあったのですが、彼自身は、画家と語っていたということです。ヴェネツィアで暮らしていた屋敷は、いまは、フォルチュニ美術館となっていて、その屋敷で使用されていた吊りランプや、彼の絵や写真なども飾られていました。




 会場で、2016年春のヴァレンチーノの「フォルチュニへのオマージュ」という
ファッションショーの録画を見たのですが、繊細でゴージャスなドレスは、とてもすばらしく、見惚れてしまうほど見事でした!!!

  プルーストの小説にも出てくるようなフォルチュニのドレスの系譜は、見事にヴァレンチーノへと、受け継がれているのですね・・。






2019年7月24日水曜日

読書・「海に住む少女」シュペルヴィエル著




 7月19日から、ようやくあのカナカナカナ~と鳴く「ひぐらし」の声が聞こえるようになりました。
 昨日の散歩のときに、かわいらしいうすべに色のアジサイを、見つけました。
   今年さいごのアジサイです。
 


  不思議な本を、読みました。
 「海に住む少女」シュピルヴィエル著・永田千奈訳・光文社古典新訳文庫です。

 ジュール・シュピルヴィエルは、詩人ですが、彼の詩は、以前から好きでした。このブログにも、彼の詩「樹」を、昨年の11月に紹介しています。
 そんな詩人の彼が、本も書いていると知り、読んでみた本です。




 この本には、短い小説が10編載っているのですが、私はその中で、この本のタイトルにもなっている「海に住む少女」が、一番こころに残りました。

 主人公の少女が、海に浮かんでいる蜃気楼のような街に、たったひとりで住んでいるという不思議なお話しです。そして、読者には、彼女のさみしい孤独な生活の理由が、最後にわかるようになっています。
 
 童話のようになにげない文で、やさしく書いてあるのですが、不思議な世界にひきこまれてしまいました。シュピルヴィエルの死生観が感じられる哀しく切ない物語でした。




 ジュール・シュペルヴィエルは、1884年にウルグアイのモンテヴィデオで生まれていますが、両親はフランス人です。幼い時に、両親がなくなり、ウルグアイに住んでいた叔父にひきとられ育ててもらうのですが、教育はフランスで受けています。

 彼はフランス語の、詩集や、長編小説4冊、戯曲3編・短編小説などを残しているようです。ウルグアイで暮らしていたのですが、62歳のときにフランスにもどり、76歳で、フランスの詩王(プランス・デ・ポエット)の称号を受け、同年の1960年、76歳で亡くなっています。

 シュペルヴィエルのこの本は、読む人の琴線にふれる何かを、残してくれているように、思いました。














 














2019年7月18日木曜日

読書・もう、1冊の「消え去ったアルベルチーヌ」高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫




  連日の雨で気温が低く、太陽を見ない日が続いているのですが、散歩の時に、太陽のように輝いている花を、見つけました。キンシバイの園芸品種で、ピペリカムヒドコードという難しい名前の花です。梅雨のこの季節に、元気をもらえるような花でした。




 岩波文庫の吉川一義訳の「失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ」を読み終えたばかりでしたので、比べてみようと思い、大分以前に読んで本箱にあったこの本を、再読してみました。

「消え去ったアルベルチーヌ」プルースト 高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫です。

 


 この縮小版は、プルーストが死の直前に手を入れたタイプ原稿で、1987年に発見され、グラッセから出版されているので、グラッセ版と言われているようです。

 このグラッセ版は、「消え去ったアルベルチーヌ」の四分の一ぐらいに大幅な削除がなされています。そのせいか、わたしにとってはとても読みやすく、一気に読んでしまいました。従来の「消え去ったアルベルチーヌ」よりも、こちらの方がよりプルーストの意図が明白になっていて、おもしろく読むことができたように思います。




 ただこのグラッセ版の発見のおかげで、翻訳する方は、この第六篇の「消え去ったアルベルチーヌ」の部分を、全体の中でどう位置づけるのか、いままでの自筆の原稿やタイプ版などとも比較して校訂の難しい選択をせまられることになってしまったようです。

 それにしても、いままでは、フランス語圏のみで読まれていたこのグラッセ版を、日本語の翻訳で読めるようになったというのは、わたしのようなプルーストファンとしては、しあわせなことだと思いました。




 ※このグラッセ版の「消え去ったアルベルチーヌ」を訳された高遠弘美さんは、いま、光文社古典新訳文庫で「失われた時を求めて」の全巻の翻訳にとりくんでいらっしゃる途中です。わたしは、最初の2冊まで、読んだのですが、全巻翻訳の完了を期待しております!


2019年7月14日日曜日

読書・「失われた時を求めて」12消え去ったアルベルチーヌ プルースト作 吉川一義訳 岩波文庫




 今年の梅雨はとても長く、肌寒いような天気が続いています。この辺りに自生しているヤマホタルブクロも例年より開花が遅く、長く咲いているように思います。
 


 「失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ」プルースト作・吉川一義訳・                       岩波文庫を、読み終えました。

 この巻では、話者が いっしょに暮らしていた恋人のアルベルチーヌの突然の失踪と、それに続く彼女の事故死。失踪前には、別れようとさえ思っていたアルベルチーヌを、話者は、実は本当は愛していたのだと知るのでした。
 そして、母との念願だったヴェネチィアへの旅が、語られています。



 話者は、アルベルチーヌの失踪と事故死の後、喪失の痛手はもちろんですが、彼女が同性愛だったのではという疑惑と嫉妬にもかられるのです。その恋愛感情の推移と機微が、プルーストらしい筆致で心理分析し、数百ページにもわたり、繊細に書かれています。でも、やがて次第に、時がそれを癒してくれるのでした。
 



 プルーストは、実際の人生でも、同居していたアゴスチネリという美貌の運転手の愛人の失踪と事故死を経験しています。このことは物語の中のアルベルチーヌの失踪や事故死にも、取り入れられているようで、この巻の後ろの付録に、アゴスチネリに送ったプルーストの興味深い手紙が、載せられています。



・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「人は、たったひとつの微笑みやまなざしや肩などに惹かれて恋に陥る。それだけで充分なのだ。」
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 これは、254pに書かれている文の引用ですが、わたしがこの巻の中で一番惹かれた文章です。

 話者もアルベルチーヌの微笑みやまなざしに惹かれて恋に落ちたのでしょう。そしてそれだけでもう、充分なのだと言っています。




 この巻でも、プルーストの心理分析は見事だと思いました。アルベルチーヌとの恋の想い出の抒情的な散文もあちこちにちりばめてあり、わたしの好きなところでした。
 


 
 
 
 

2019年7月3日水曜日

美しすぎるわくら葉・・



 本格的な梅雨のシーズンに入りました。
 雨の合間をぬって散歩していると、はっとするほどきれいすぎる桜のわくら葉が、道に散り敷いていました。



  わくら葉は、病葉と書くのですが、辞林で調べてみると、「病気で枯れた葉。特に夏、赤や黄に変色して垂れたり縮まったりした葉。」と、書いてありました。

 赤や黄の葉っぱの色は、紅葉ではなく、変色なのですね。わたしは毎年この季節に桜の葉が紅葉して散り敷くのを不思議に思っていたのですが、それはわくら葉だったと知りました。




 わくら葉は、俳句では夏の季語だそうです。
 木々はすべて緑の夏のこの季節に、こんな不思議な葉を見るのは、自然界のいたずらのようにも思えてきます。
 




見上げてみると、緑の葉っぱの中に、たった一枚だけのわくら葉が、下がっていました。



わくら葉は、すべて緑の世界の中で、じっと何かに耐えているようにも、見えました・・。