2020年12月18日金曜日

読書・「ペスト」カミュ著・宮崎嶺雄訳・新潮文庫

 


 冬晴れの日の白河・南湖公園のメタセコイアです。すっかり葉を落とした木々が、空に向かってスックと立っている姿は、ほれぼれとするほど見事でした。 



 「ペスト」は、以前に読んだ本ですが、本箱にあったものを見つけ、コロナ禍のいま、再読してみました。

 最初の数ページで、なぜか文体に惹かれました。翻訳者の宮崎さんは、解説でこの文体のことを、誠実で清潔な文体といわれています。そしてさらにその簡潔な文体のかげには、感動の美しさがひっそりと息づいているとも述べられているのですが、わたしが文体に惹かれた理由はそういうことだったのかと、納得できました。



 物語は、アルジェリアのオラン市で4月16日の朝、主人公の医師ベルナール・リウーが階段口で死んだネズミにつまずいたところから、始まります。ペストは次第に猛威をふるい街は閉鎖されるのですが、死者の数が毎日何人と発表されるところなどは、今回のコロナ禍のなか、実感を伴って感じられました。

 リウーは献身的にペスト患者をみるのですが、そんなある日、リウが友人のタルーといっしょに海で泳ぐシーンがあります。ペスト禍のなか、二人はしばしの心の安らぎと幸福感を共感するのですが、ここはほっとする好きな場面でした。



 そしてついに2月のある晴れた朝の明け方、市の門は開けられ、人々はペストという不条理から解放されるのでした。ペスト禍という不条理な出来事のなか、人々はどう過ごしたか、そしてそれが過ぎ去ったあと、何が残ったのかを語るため、物語の最後にこの本の作者は、リウだとあかすのでした。

 リウはもちろんカミュで、彼がペストという天災の最中に教えられたことは、人間の中には軽蔑すべきものよりも、賛美するもののほうが多いということ。そして、ただそれだけをこの物語で書きたかったのだと、カミュはリウの言葉を借りて語っています。

 日本でも、東日本大震災という天災のときに、人々のやさしさと善意がいっぱいあったことは、わたしのこころにもいまでもしっかりと、残っています。

  今回の世界的なコロナ禍のあと、人々のこころには、何が残るのでしょうか・・・。考えさせられる本でした・・。

 カミュは、1957年に44歳という若さでノーベル文学賞を受賞し、1960年に自動車事故で47歳で亡くなっています。

 


2020年11月30日月曜日

読書「クリスマスの思い出」トルーマン・カポーティ著・村上春樹訳/山本容子銅版画



 カポーティの「クリスマスの思い出」は、この季節になると、いつも繰り返して読んでいる大好きな本です。



 村上春樹さんの訳も簡潔で好ましく、山本容子さんの味わいのある銅版画も、チャーミングです。本の表帯には、「イノセント・ストーリー」そして、後ろには、「遠い日、僕たちは幼く、弱く、そして悪意というものを知らなかった。」と、書いてあります。



 主人公のバディーは7歳の少年の僕、そして子供のようなこころを持った60歳過ぎの女性(スックという名前ですが、この本には彼女とだけ書いてあります。)、それに犬のクイニー(オレンジと白の混ざったラット・テリア)が出てきます。

 11月も終わりになる頃、彼らは、フルーツケーキを30も焼き、クリスマスツリーの木を伐りだしてきて、ツリーを紙の手製のデコレーションで飾り、プレゼントの凧を密かに作って交換し、クリスマスを楽しむのでした。

 


 バディの貧しいけれども愛につつまれて暮らしていた無垢な少年の頃のお話ですが、バディはカポーティでもあったのだと思います。大人になったカポーティのこころの中に、いまでもあたたかく残っているかけがえのないクリスマスの思い出なのですね。




 きょうは、この本の英語の原文をネットで見つけて読んでみたのですがとても読みやすく 、アメリカでは教科書にもとりあげられているというのが、納得できました。カポーティも聴衆の前でこの本を読むのが、好きだったということです。




 カポーティの「クリスマスの思い出」は、やはり何度でも繰り返して読んでしまうチャーミングで大好きなお話でした・・・・。




2020年11月22日日曜日

音楽・わたしの好きなCD「ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス」



 きょうは、朝から、「ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス」のCDを、一日中聴いていました。

 カラスの声はもともとは、メゾ・ソプラノだったそうですが、超人的努力でハイ・ソプラノまでの音域や、コロラトゥーラの技巧を獲得したとCDの解説に書いてありました。聞いているとぞくぞくとしてしまうような、あのハイ・ソプラノの軽妙な歌い方には、しびれてしまうのですが、その陰には、やはりすさまじい努力があったのだと理解できました。



 そういえば、日本文学者の故ドナルド・キーンさんもカラスのファンでした。「マリア・カラスを偲ぶ」というエッセイを書かれています。彼は1952年に初めてロンドンのコベントガーデン歌劇場でカラスの「ノルマ」をご覧になられたとのことです。その頃のカラスは、太めのからだつきだったそうですが、歌い始めると声が苦もなく流れでて、下降するときの高音はぞくぞくするほどだったとのこと・・。それ以後、すっかりカラスのファンになられたようです。

 その4年後の1956年にニューヨークのMET(メトロポリタン歌劇場)で、またカラスの「ノルマ」をご覧になられたキーンさんは、このような興味深い感想を書かれています。



 METでのカラスは以前の彼女と違い、ダイエットでほっそりとやせて美しくなり、演技にも優雅さが満ち溢れていたそうです。そして高音域の音程を外すことがあっても、そのことが観客の次への期待への効果をあげ、さらに舞台の劇的緊張を盛り上げていたとのこと・・。

 それは、世阿弥の「花至道」によれば、芸の達人は、自らの芸を完成させた後に、観客に完璧さの「慣れと退屈」を感じさせないために、意識的に下手な技を取り込むこともあるということと同じではないかと、キーンさんは持論を書かれているのですが、納得でした。



 キーンさんは、カラスのコロラトゥーラと、リリック・ソプラノのための曲を選りすぐったアリア集だけは是非聴いてほしいと、書かれているのですが、このCDでもわたしは十分、堪能できました。

 このアルバムの中では、歌劇「ノルマ」の「清らかな女神よ」が、好きです。




 カラスは「ノルマ」を、1948年にフィレンツェで歌って以来、1965年のパリ・オペラ座での公演まで最高の当たり役として、90回も演じているとのことですが、もう伝説のオペラ歌手になってしまったのかもしれませんね・・・。

 カラスの歌声に聞き惚れてしまった秋の一日でした・・・。




2020年10月23日金曜日

読書・「マルテの手記」リルケ著・大山定一訳・新潮文庫

 


 リルケはこの本の中で、詩についてこのように書いています。詩は感情ではなく経験である。一行の詩のためには、人生のさまざまを経験することが必要であり、その思い出のかげからぽっかりと詩が生まれてくるのだと・・。



 彼はこの本を書くのに7年もかかったということです。マルテという青年作家のパリでの生活の究極の内面を描いているのですが、マルテはリルケだったようです。

 マルテのパリでの生活の孤独と貧しさは、彼の血の中にまで溶け込むのですが、最後にはその究極のどん底の生活の中にも、何かすばらしい祝福や肯定の愛があるのを暗示して物語は、終わっています。



 プルーストは、「失われた時を求めて」の最後に、主人公が、自分のこの長い人生の経験を文学作品として書こうと決心したところで、物語は終わっています。リルケも詩人や作家として作品の一行を書くのには、このような経験が必要だったのだとこの小説の中でマルテの手記という形をとって書きたかったのかもしれません。

 リルケは、この小説を書いた以後は、小説は書いていないというのも、わかるような気がします。このような究極の物語を書いてしまったのですから・・。



 わたしがこの小説の中で、好きなところが47pにあります。

「店の中をふとのぞきこんでみると、誰か彼か人間がいて、知らん顔ですわったまま本を読んでいる。明日の心配もなければ、成功にあせる心もない。犬が機嫌よさそうにそばに寝ている。でなければ、猫が店の静かさをいっそう静かにしている。猫が書物棚にくっついて歩く。猫は尻尾の先で、本の背から著者の名まえを拭き消しているかもしれない。こういう生活もあるのだ。僕はあの店をそっくり買いたい。犬を一匹つれて、あんな店先で二十年ほど暮らしてみたい。ふと、そんな気がした。」

 リルケは、生きることのしあわせを、このようなパリでの光景に見ていたのかもしれません。



リルケがマルテに託して書いた彼の芸術家としての魂の告白は、あまりにも悲痛ですが、このような場面があることは、生きることの肯定と希望が感じられました。

 翻訳者の大山定一さんの「あとがき」の最初にこんな言葉が書いてありました。

 「なぜなら、貧しさは内部から射すうつくしい光である」

 









2020年10月3日土曜日

読書・「日本文学史」小西甚一著・講談社学術文庫

 

   小西甚一さんの著書、「日本文学史」を、読みました。本の後ろに、ドナルド・キーンさんの解説がついていて、この本との出会いのエピソードが書かれているのですが、おもしろく読みました。



 ドナルド・キーンさんが京都に住んでいらしたとき、東京までの列車の中で何か読もうと思い、駅の本屋さんで何気なく購入なさったのが、この本との出会いだったとのことです。キーンさんは読んでみてすっかり感銘なさり、その後小西先生の自宅までも訪ねられることになったということでした。



 キーンさんは、この日本文学史は学問的でありながら小西さんの新鮮な見解がちりばめられているといわれているのですが、わたしもそう思います。読者としてもやはり、学問的であることはもちろんですが、著者の個人的な新鮮な見解を読みたいからです。




   小西さんは、この本で 「連歌の美は、花や鳥の美しさでなく、花らしさや鳥らしさの美しさなのである。」と言われていることや、日本文学を「雅」と「俗」にわけて分析なさっていることなども、新鮮な見解だと思いました。



  また、文学史にもかかわらず、道元の「正法眼蔵」をとりあげられていて、宗教的内容はともかくとしても、道元が自分の言葉で独創的に表現しているということを、価値あることとして高く評価なさっているのも、うれしく思い、印象に残りました。

 道元の弟子が書いた「正法眼蔵随聞記」は、わたしの愛読書なのですが、難解といわれる「正法眼蔵」にも興味を持ちました。


 キーンさんは解説で「文学の中心へ導く書」と、タイトルに書かれているのですが、日本文学とは何かを考えさせてくれる本でした。


 


2020年9月20日日曜日

森のきのこたち

 


 9月に入り、散歩道には、きのこがあちこちに顔を出し始めました。

 今年の夏は、雨が多く湿度も高かったので、きのこたちも大喜び。

              


  これは、タマゴタケという名前のきのこですが、

  一列に並んでいるとまるで、白雪姫に出てくるこびとのよう。


 

1・ タマゴタケは、森の中でまず最初に、こんな感じにおずおずと顔をだします。


2・次に赤い帽子をこっそりとのぞかせて・・。



3・ぴょんと背伸び



4・帽子を広げると雨傘のダンスのよう。



 

 今年もきのこたち、出てきてくれてありがとう。

 来年も待っていますね。See you again !!! 





2020年9月17日木曜日

アポリネールの猫の詩

 

 わたしが持っている本の中でいちばん美しい装丁の本は、「アポリネール詩集」です。アポリネールの詩は、窪田般彌訳、出版社は、ほるぷ出版。古本市に行ったときに、あまりにも美しいので一目で気にいってしまい買った本でした。



 この本は、ピエール・カルダンの装幀・装画で、動物詩集には、R・デュフィの挿画が入っている豪華版です。アポリネールといえば、「ミラボー橋の下をセーヌが流れる・・」ではじまる詩「ミラボー橋」があまりにも有名ですが、わたしは、動物詩集の中の「猫」が、大好きです。

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「猫」
             アポリネール     (窪田般彌訳)

僕は家に持ちたい、

分別のある女房一人と、

書物のあいだを通り抜ける子猫一匹、

それに、彼らなしには生きていけない

いつもそばにいてくれる友達数人。

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                引用 アポリネール詩集 83p
                    窪田般彌訳 ほるぷ出版


              R・デュフィの挿絵「猫」

 アポリネールは、1880年にローマで生まれていますが、母はポーランドの亡命貴族で父はモナコの司教だったそうです。19歳で母といっしょにパリで生活するようになったのですが、生活は苦しくそんな中で、詩をかき、友人を作り恋をしたようです。

 彼はフランスを愛する気持ちから帰化し、戦争(第一次世界大戦)に行くのですが、戦傷を受けて戻り、重い傷が癒えてから再び詩を作って活動していました。

 そんな中、1918年にジャクリーヌと結婚したのですが、その後わずか7か月後の11月に、スペイン風邪で亡くなってしまいました。



 この猫の詩は、分別のある妻と、書物の間を通りぬける子猫一匹、それに彼らなしには生きていけないような友達数人・・・・・それらを家に持ちたい!とうたっているだけなのですが、詩人の気持ちが、なぜかよくわかります。そして、子猫が書物の間を通り抜けるシーンまでが目に浮かんできて、読むたびにいつもキュンと感じてしまうのです。

 アポリネールのささやかでしあわせな人生観で満ち満ちているような詩で、わたしは、大好きです。




2020年9月13日日曜日

妖精の帽子のようなかわいい花 「ツルニンジン」

 


 先週、公園を散歩していた時に、今年も妖精の帽子のようなかわいい花を見つけました。ツルニンジン(ジイソブ)です。いつも9月のはじめ頃に咲くので楽しみに待っている花です。



 ツルニンジンは、つるが長いもので2メートルもあるそうですが、これは1メートルぐらいでした。

 昨年の暮れに公園の木を伐採して置いてあった枯れ枝に、つるが伸びてからまっていました。3か所でこの花を見ましたので、来年もこの場所で咲いてくれますようにと願っています。



 ツルニンジンの別名は、ジイソブというのですが、お爺さんのソバカスという意味だとか。かわいそうなネーミングですので、別名は、「妖精の帽子」こんな名前のほうが似合っていると思うのですが・・。

 花が終わると、ポロリと帽子がぬげ落ちてこんなおしゃれなブローチのような形に変身するのも、すてきです!!!










2020年8月31日月曜日

読書・「プルーストの浜辺「失われた時を求めて」再読」海野弘著・柏書房 


 

 ここ数日、猛暑の日が続いていたのですが、きょうは少し涼しくなり、木陰で読書。

 海野弘さんが書かれた「プルーストの浜辺」を、読み終えました。副題は、「「失われた時を求めて」再読」です。



 海野弘さんの本は、20年前ぐらいに出版された「プルーストの部屋」上・下を読んで以来2冊目です。

「プルーストの部屋」上・下は、わたしがプルーストの「失われた時を求めて」を初めて井上究一郎さんの訳で全巻読んだときに、いっしょに読んでいた懐かしい本です。

「プルーストの部屋」は、海野さんの専門分野でもあるアール・ヌーヴォーの世界からのプルーストへのアプローチだったように思うのですが、この本「プルーストの浜辺」は、ノルマンディの浜辺からのプルーストへのアプローチでした。




 海野さんは、ノルマンディが舞台になった小説として、フローベールの「ボヴァリー夫人」やモーパッサンの「女の一生」を挙げ、それらがプルーストの作品「失われた時を求めて」へと連なっていることが見えてきたと、書かれていますが、おもしろい視点だと思いました。

 わたしは、ノルマンディにあるエトルタに、結婚式に招かれて行ったことがあるのですが、あの辺りに住む人々や浜辺の風景を、なつかしく思い出します。エトルタにあるモーパッサンの住んでいた家もまだ残されていて、室内からはあの時代の雰囲気や空気感も感じることができました。



 「失われた時を求めて」の中で、主人公はノルマンディの架空の町バルベックの浜辺でアルベルチーヌに初めて会ったのですから、アルベルチーヌは海のイメージを背負っているともいえるのかもしれません。

 それにしても、海野さんの書かれた「プルーストの部屋」を20年前に読み、今度は「プルーストの浜辺」をこのコロナの夏に読んだというのは、わたしのプルーストをめぐる読書のおもしろいめぐりあわせだと思いました。



  海野さんは「プルーストの部屋」を、書かれてから20年後、「プルーストの浜辺」という本にたどり着かれたのですが、わたしのプルーストをめぐる時間は、まだまだ続きそうです。






2020年8月27日木曜日

ひまわり・ひまわり・ひまわり

 


 先日、買い物に出た帰りに、「道の駅 明治の森・黒磯」に寄ってひまわりを、見てきました。 ここのひまわりは、道の駅に隣接する旧青木周蔵子爵邸の広い庭に植えられていて、雰囲気のあるひまわり畑になっています。



 たくさんのひまわりを見ていると、「ひまわり」というソフィア・ローレン出演の映画を思い出しました。

 古い映画ですが、戦争によって別々の人生を生きていくことになったイタリア人の男女の哀しい愛が、ヘンリー・マンシーニの哀愁のある音楽とともに、切なく語られていました。

 その映画の忘れられないシーンとして、主人公が車窓から見るロシアの広大なひまわり畑が出てくるのです。



 そのひまわり畑の下には、戦争で犠牲になったたくさんの兵士が眠っているとのこと。ロシアの国花もカミツレ(カモミール)とひまわりです。。

 そういえばむかし、主人公を演じたソフィア・ローレンにお会いしたことがありました。ロンドンのセルフリッジというデパートで、彼女の料理本のサイン会をしていらっしゃったのです。

 テーブルを前に、鮮やかなブルーのシンプルなブラース姿で、椅子にかけていらっしゃるお姿は、やはりすてきでした。そしてあのひまわりのような瞳も印象的でした。

 



 そのときのソフィア・ローレンの書いた料理本のレシピで覚えているのが、ひとつだけあるのですが、それは、きゅうりとカニのサラダでした。

 ヨーロッパのきゅうりは、太くて大きいので、まずたて半分に切り、中の種の部分をスプーンでくりぬきます。そこに、カニをマヨネーズであえたものをつめ冷やして皿にならべるだけという簡単な料理ですが、シンプルですが、おいしそう!

 彼女の料理好きという意外な一面も知り、それ以後、彼女のファンになったのですが、ひまわりの映画の場面で、車窓から見える一面のひまわり畑のシーンは、いまも目に浮かんできます。

 それからあのソフィア・ローレンの、ひまわりのような瞳も・・・。

 







2020年8月20日木曜日

読書・「シャボテン幻想」龍膽寺雄著(ちくま学芸文庫)

 


 8月14日の朝、シロバナクジャクサボテンの大輪の花が、優雅に花開きました。13日には蕾が大きくふくらんでいたので、14日の早朝に期待しながら庭の鉢を見に行きますと、やはり見事に花開いていました!!!


 

 クジャクサボテンは、メキシコ中央高原で栽培されていたものに、数属以上のサボテン類を交配して改良したもので、花の色は白、赤、ピンク、オレンジ、黄色、紫などいろいろの園芸品種があるとのことです。

 サボテンや多肉植物が大好きな友人から教えていただいた「シャボテン幻想」という本があるのですが、以前に電子書籍に入れておいたのを思い出して、読んでみました。



 著者の龍膽寺雄(りゅうたんじ・ゆう)さんは、1901年茨城県生まれの作家ですが、サボテンの研究家としても国際的にも名前を知られていた方だそうです。昭和初期にモダニズム文学の作家として活躍されていたのですが、文壇の派閥などが嫌になりサボテンを育てはじめたところ、すっかり夢中になってしまい、サボテン研究家にまでなられてしまったとのこと。

 この本は、サボテンの歴史などサボテンに関する興味深い話をおもしろく書かれています。



 龍膽寺さんは、人生観もサボテンを通して述べられています。

 サボテンは、砂漠という過酷な自然で生きている植物であり、人間もまた心に砂漠を抱いて生まれてきているので、どちらも荒涼が性にあっていて、「荒涼の美学」という点で似ているとのこと・・。

 また、サボテンは性格的な植物で、一般の草花好きというようなタイプとは違う性格のタイプの人をひきつける・・・。

 あるいは、草花好きの人を植物的性格、多肉植物やサボテンが好きな人を動物的といっているなど、彼の人生観や人間観も、ユニークでおもしろいと思いました。

 

 

 「シャボテン幻想」を読んでいたら、少し意味が違うのですが、堀辰雄さんが本の中で、こんなことを書かれていたのを思い出しました。

 堀さんによれば、クレチウスという人が、「プルースト」という本の中で作家を2つのタイプ、動物(フォーナ)と植物(フローラ)に分けた場合、プルーストは植物(フローラ)といっていたとのこと。

 プルーストの本には、かなりたくさんの植物が出てきますので、たしかにプルーストは植物のタイプの作家というのは、わたしも頷けました。

 

 

 14日に咲いた花は、16日の朝、こんな感じにしぼんでいました。2日間だけのパフォーマンスでしたが、綺麗に咲いて楽しませてくれたシロバナクジャクサボテンは、暑い夏の白日夢のような花でした。