2019年3月31日日曜日
春の霧
昨日(3月30日)は、一日中細かい霧雨が降り、いつもの散歩道は、霧が立ち込めこんな感じになっていました。
こんな日は、空気もしっとりとして季節が春に移ろうとしている気配を感じるのですが、なつかしい霧の匂いが立ち込めていて、思わず深呼吸してしまいました。
最近、このベンチに腰をおろして本を読んでいらっしゃる女性をときどきお見かけするのですが、さすがにこんな日には、いらっしゃいませんでした。
この公園の林は、コナラやクリ・ホウノキなどが多いのですが、ざくざくと降り積もっている落葉は、もうすぐ土に帰る日を待っているようです。
木々の春の芽吹きを夢見ているような霧の風景も、すてきでした。
2019年3月17日日曜日
春の淡雪・・
先日の3月14日に降った春の淡雪です。
春の雪はすぐに融けてしまうので、あわてて9時頃に公園に行って写したのですが、やはり日中の晴天で気温がぐんぐん上がり、夕方にはほとんど消えていました。
消えてしまうのが惜しいほどのきれいな雪景色だったのですが、そういえば、春の雪を詠った定家のこんな歌がありました。
心にもあらぬわかれの名残りかは
消えてもをしき春の雪かな
定家
春の雪は消えてしまうのが惜しいと、やはり誰でも思うということなのでしょうが、定家は、本意ではない別れのことを、春の淡雪にたとえていて、さすがですよね。
公園で先日見つけたフキノトウも、こんな感じになっていました。
2019年3月8日金曜日
雨の日に椿を見に・・・
先日の雨の日に、久し振りに友人に会ってランチをしてきました。
いっしょに散歩した椿山荘では、雨に濡れて一段とあでやかになった椿を見ることができてラッキーでした。
ところで、先日読んだ本(日本の花・柳宗民著・ちくま新書)に、椿の話しが書いてありました。
柳さんによれば、椿(つばき)という字は、実は国字で、春に咲く木なので木偏に春で椿(つばき)と読むようになったということです。
漢字の椿は、中国読みでは、チンと読み、実は中国では、日本のツバキとはまったく違うチャンチン(香椿)という落葉樹のことを指すのだとか。
ですから、柳さんは、ツバキの木がいっぱいある椿山荘は、ツバキヤマソウと読むのが正しいのではとも書かれていました。
3月の雨に濡れている椿を見ながらの散歩でしたが、雨の日の椿も、とても魅力的でした。
赤い椿の花言葉は、「控えめなすばらしさ」「謙虚な美徳」だとか。
2019年3月7日木曜日
新訳でプルーストを読破する第10回「囚われの女Ⅰ」
3月2日、立教大学で行われた新訳でプルーストを読破する第10回「囚われの女Ⅰ」に参加してきたのですが、立教大学構内では、椿がきれいでした。
今回の講師は、プルースト研究家の小黒昌文さんで、彼によれば、プルースト的一言は、「響きあうしるし」ということでした。
この小説を読んでいると、たとえば「カモメ」や「睡蓮」などの言葉が、響きあうしるしになっているというのです。
わたしも響き合うしるしを見つけてみると、海がありました。
アルベルチーヌの切れ長の青い目が液体化したように見え、彼女が目を閉じるとカーテンが閉まって海が見えなくなるような気がした。(41p)
アルベルチーヌの中に息づいていたのは午後の終わりの海だけではなく、ときには月夜の砂浜にまどろむ海でもあった。(149p)
海はフランス語では、「ラ・メール」で女性ですから、アルベルチーヌを海にたとえるのは、ふさわしいのかもしれません。
それにしても、アルベルチーヌの青い目を海にたとえ、彼女が目を閉じるとカーテンが閉まって海が見えなくなるような気がしたというフレーズは、すてきです!
この巻でのわたしの好きな1ページは、419pの2行から4行でした。
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「ベルゴットは埋葬されたが、葬儀の夜、ひと晩じゅう明かりの灯った本屋のショーウインドーに、その本が翼を広げた天使のように三冊ずつ飾られて、通夜をしているのが、もはやこの世にいない人にとって復活の象徴となっているように思われた。」
引用 失われた時を求めて10囚われの女Ⅰ プルースト作 吉川一義訳
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ベルゴットという作家の書いた本は、彼が亡くなっても芸術作品として永遠に残るという暗示ですが、これはプルースト自身のことかもしれません。
この世に自分(プルースト)が生まれてきたのは、芸術作品としての本を書く仕事を成し遂げるためと自分に言い聞かせ、あの晩年の昼夜を逆にして、音を遮断するために、コルクを貼った部屋で、苦行僧のように書き続けたのだと思いました・・・。
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