今年の夏、最初にヤマユリが咲いたのは、7月11日でした。
プルーストの誕生日は、7月10日ですから、ヤマユリが咲くころになると、毎年プルーストの誕生日を思い出すようになりました。実はわたしの兄もプルーストと同じ誕生日なので、いつも兄を少しうらやましく思っています。
ヤマユリは開花すると、手を広げたぐらいに大きくて驚くのですが、甘く濃厚な香りも個性的で、野草の女王さまのようです。このような花があちこちに咲いている散歩道を歩くことができるのは、しあわせなことだと思うようになりました。
高遠弘美訳の「失われた時を求めて」の2の「スワンの恋」を、読み終えました。
プルーストは、恋のはじまりについて、こんな風に書いているのですが、今回もまた、同じところを、それぞれ違う翻訳者で比べてみました。
☆高遠弘美訳「失われた時を求めて」2第一篇「スワン家のほうへⅡ」プルースト著
光文社古典新訳文庫
120pの引用
「恋愛を生み出すあらゆる様式の中で、また、恋愛という聖なる病をいたるところで芽ばえさせるあらゆる要因のうちで、もっとも力を発揮するもののひとつは、ときとして私たちの上にも吹きつける心の動揺という強い風である。まさにそのとき、一緒にいて楽しいという相手がいれば、賽(さい)は投げられたも同然で、私たちはその人間を愛することになる。」
「私たちの上にも吹きつける心の動揺という強い風・・」
高遠弘美さんの訳は、なめらかな美しい日本語ですんなりと読めました。好きな訳です。
☆吉川一義訳 「失われた時を求めて」2スワン家のほうへⅡ プルースト著
岩波文庫
113pの引用です。
「恋のあらゆる生産方式のなかで、つまりこの神聖な病いの伝播要因のなかで、もっとも効果的なものがある。それはときにわれわれに降りかかって動揺をひきおこす大いなる息吹である。その瞬間に運命の賽(さい)は投げられ、その時点で楽しくすごしていた相手がわれわれの愛する人となるのだ。」
「われわれに降りかかって動揺をひきおこす大いなる息吹・・」
吉川一義さんの訳は、端正で誠実、お人柄がしのばれるようです。立教大学で行われた連続公開セミナー「岩波文庫から刊行中の吉川一義氏による新訳でプルーストを読破する」でお会いした彼は、やはり真摯なプルースト研究者のお姿でした。
☆鈴木道彦訳 「失われた時を求めて」2 第一篇スワン家の方へⅡ プルースト著
集英社ヘリテージシリーズ
106p~107pからの引用
「恋愛を作りだすさまざまな仕方、この聖なる病いをひろめるさまざまな要因のなかで、まさしくもっとも有効なものの一つは、ときとして私たちの上を通り過ぎてゆくあのはげしい動揺の息吹きである。そのときにたまたま憎からず思っていた相手こそ、運命の骰子(さい)は投げられ、私たちの愛する人となるだろう。」
「私たちの上を通り過ぎてゆくあのはげしい動揺の息吹・・」
鈴木道彦さんは、プルーストの翻訳について、「この物語の面白さを、できるだけ平明な日本語で表現して読者と分け持ちたい」と、2001年に日本経済新聞に書いていらしたのを覚えているのですが、やはりその言葉通りに、誠実に平明に訳していらっしゃるのだと、実感させていただきました。
☆井上究一郎訳 「失われた時を求めて」1第一篇スワン家のほうへ プルースト著
ちくま文庫
387pからの引用
「恋を生みだすあらゆる様相のなかで、この神わざ病を伝播するあらゆる要因のなかで、もっとも有効なはたらきをなすものの一つは、ときどきわれわれの上を吹きすぎるあのはげしい爆風である。そんな瞬間に、われわれがともに好感を抱きあっている相手の人こそは、運命のさいころはもう投げられていて、やがてわれわれが愛する人になるだろう・・」
「われわれの上を吹きすぎるあのはげしい爆風・・」
井上究一郎さんの訳は、30年前ぐらいにわたしがはじめてプルーストの「失われた時を求めて」全巻を読了した記念すべき翻訳なので、とてもなつかしく、こんな訳だったのだと、改めて思いだしながら、読みました。彼は個人で最初にこの全巻を日本語に訳された方なので、プルーストファンとして、感謝し尊敬しています。
4人の方の翻訳をそれぞれ比べてみますと、違いがわかって大変おもしろく、プルーストの世界を4倍も楽しめたようで、得をした気分になりました。
心の動揺という強い風が吹いて、恋の病が芽生えたスワン
スワンは、自分の趣味でもなかったオデットを、ヴァントイユのソナタを自分たちの愛の国歌として聞くことや、顔がボッテチェリが描くエテロの娘チッポラに似ていることなどから、彼の芸術趣味を満足させ次第に好きになっていくのです。
ところが、ある日、いつもいるはずのヴェルデュラン夫人のサロンにオデットがいないことに気づき、スワンは心の動揺という強い風が吹いたことで、恋の病が芽生えたのでした。
そのスワンが、「スワンの恋」の最後に近いある夫人の夜会で、ヴァントイユのソナタのピアノとヴァイオリンの美しい対話をじっくりと聴く場面がありますが、わたしの好きなところです。
高遠弘美訳からのの引用です。407p~408p
「最初はピアノだけが、伴侶に見捨てられた鳥のように悲しみを訴える。ヴァイオリンがそれを聞きつけて、近くの木から語りかけるように、ピアノに応える。それはまるで、世界の始まりか、地上にまだ彼ら二人しかいないかのようであり、いや、というよりむしろ、他のものの入り込む余地のない閉ざされた世界、ある創造者の論理にしたがって構築され、この先も彼らしかいない世界の中の出来事というべきだったろうか。それがかのソナタだった。目に見えぬ存在が悲しげに呻(うめ)き、その嘆きをピアノが優しく繰り返す。その存在は鳥なのか、小楽節のまだ不完全な魂なのか、それとも妖精なのか。」
すてきな表現ですよね。まるで、ソナタの旋律が聞こえてくるようですが、プルーストは音楽という芸術を魂に直接訴えてくるものとして、そのことを、言葉で表そうとしているのだと思いました。
この曲を聞いたスワンは、まるで美しい詩句や悲しい知らせを聞いたときのように、嗚咽してしまうのです。そしてもうオデットは自分を愛していないことに気づくのでした。
「スワンの恋」の最後は、スワンのこんなセリフで終わっています。
高遠弘美訳 475pからの引用です。
「自分の人生の何年も台無しにしてしまったとはね。とくに好きでもない、ぼくの趣味に合わないあんな女のために死のうと考えたり、これこそが我が人生最大の恋だなんて考えたり。まったく何ということだろう」。
こんな言葉を口にしてしまうスワンは、愛すべきジレッタント(芸術愛好家)だったように思います.