2017年9月30日土曜日

ジョージ・オーウェルの「一杯のおいしい紅茶」



 大分古いのですが、1946年に英国の新聞、イヴニング・スタンダードに
掲載されたジョージ・オーウェルの「一杯のおいしい紅茶「というエッセイを
見つけました。



 ジョージ・オーウェルは、TEAは英国の文明を支える大黒柱とも
いえると述べ、その紅茶の入れ方について彼の私見を述べています。

 おいしい紅茶を入れるためには、まず絶対にゆずれない項目が
11もあるということですので、書き写してみました。

1・茶葉は、インドかセイロンであること。
2・紅茶をいれるポットは、陶磁器であること。
3・ポットはあらかじめ温めておくこと。
4・紅茶は、濃いことが肝心。
5・葉はじかにポットに入れること。
6・ポットの方を薬缶のそばに持っていくこと。(沸騰している温度を保つため)
7・紅茶が出来た後、かきまわすか、ポットをゆすること。
8・カップは、マグカップにする。
9・紅茶にいれるミルクから乳脂分を取り除くこと。
10・カップに紅茶をいれた後でミルクを入れる。
11・紅茶には、砂糖はいれないこと。

 ざっと読んでも、わたしには、頷けることばかりですが、9のミルクについては、
英国では乳脂肪が特に濃いミルクがあり、瓶の上部に乳脂肪が、固まっていることが
あるので、そのことを言っているのだと思います。

 7ですが、英国人の知人はいつもポットのふたを開けて、スプーンで茶葉を
かきまわしたり、ゆすっていました。

 1946年といえば、TEAはまだ配給だったので、その貴重な茶葉でおいしく紅茶を
いれて飲みましょうというような意味もあり、このエッセイを書いたのでしょうか。



 最近の英国の紅茶事情を調べてみましたら、英国で飲まれている紅茶の
97%は、ティーバックということですから、ジョージ・オーウェルが
生きていたら、びっくりすることと思います。

 また、最近の英国人のほとんどが、マグカップで紅茶を飲むというのは、
彼の言っていることなのでOKだと思いますが、そのままTEABAGをカップに入れて
沸騰したお湯を注ぐという飲み方には、驚くと思います。


ジョージ・オーウェルは、TEAは英国の文明を支える大黒柱と
言っていますが、最近の英国の統計では、
家庭で飲むのは、紅茶が2でコーヒーが1、外では、紅茶が1でコーヒーが4
だそうですから、大黒柱も少し揺らいでいるような感じもしますが
どうなのでしょうね・・。

 英国に長い間住んでいたわたしは、やはりストロングTEAが好きですが、
最近では、紅茶は、あたためたポットに、TEABAGを入れ、沸騰したお湯を入れて
TEACOSYをかぶせて3~5分おき、ミルクを入れて飲んでいます。

 

 



   


 






 

2017年9月25日月曜日

栗の実落ちて・・・



 ここ数日、毎日のように栗の実や、どんぐりが
庭に落ちています。



 よろこべばしきりに落つる木の実かな
                   (富安風生)

 という富安風生さんの句があります。
 作者が木の実が落ちるのを喜んでいるという気持ちは、よくわかりますが、
多分落ちている木の実もうれしそうに、落ちているねということなのでしょうか。




 詩人の大岡信さんは、この句のことを、「古びのこない瑞々しさは
見事である」と、評されています。

 そういえば、この句は、富安風生さんが、昭和8年に出された第一句集の
「草の花」に出てくるということですので、もう84年も前の作品なのですね。



 うちの栗は、市販の栗のように大きいものではなく山地に自然に
生えている小さな栗の実ですが、甘みがあり栗ご飯にするととても
おいしかったのを覚えています。

 木の実は、人間にも動物にも、うれしい贈り物なのかもしれません。













2017年9月22日金曜日

印象派の絵のような・・・



 今年も彼岸花群生地に行ってきました。
 赤やピンク色が緑に映えて、まるで印象派の絵のようだと、
しばし見惚れてしまいました。
 


 そこは、蓑沢(美野沢)というところにあるまわりを低い山や田んぼに
囲まれたのどかな田園地帯にある公園でした。




  この景色を見ていると、与謝野晶子が、フランスでコクリコ
(ひなげし)のこんな歌を詠っているのを思い出しました。

 ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
       君も雛曌栗(コクリコ)われも雛曌栗(コクリコ)


 フランスの野で、わたしもコクリコを見たことがあるのですが
群生していると、まさにこんな感じでした。



  日本の彼岸花からフランスのコクリコを連想したのですが、
やはり、黄色に実る田んぼの稲や、馬頭観音のこんな石像を見ると
日本の秋の景色なのだとしみじみ感じました。

















2017年9月21日木曜日

クレーの絵本 谷川俊太郎



 知人から手紙が届きました。
 それは、彼女の先日亡くなられたパートナーの方の納骨を無事に
終えられたというお知らせと、詩の紹介でした。
 彼女がパートナーの方の遺品を整理なさっていたら、彼の机の
引き出しの中に、本を見つけられたそうです。



 その本は、クレーの絵が大好きだったパートナーの方の誕生日に
彼女が贈った「クレーの絵本 谷川俊太郎」で、ページをめくっていくと、
この詩に出あったということでした。




 それは、「死と炎」という題のこんな詩で、左のクレーの絵に
添えて書かれています。

・-・-・-・-・-・-・-・ 
 死と炎
           谷川俊太郎

かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしなねばならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
かわのながれ
ひとびとのおしゃべり
あさつゆにぬれたくものす
そのどれひとつとして
わたしはたずさえてゆくことができない
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろうか
わたしのほねのみみに
・-・-・-・-・-・-・-・
        引用「クレーの絵本 谷川俊太郎」より




 彼女は、まるで夫の心を代弁しているようなこの詩に、読むたびに
涙がこみあげてくると、おっしゃっていました。
 
  彼女の胸中を思うと、高村光太郎の「悲しみは光と化す」という言葉を
思い出してしまいました。光太郎はこの言葉を、ベストパートナーを
亡くされた方に贈っています。

 光太郎も最愛のパートナーの智恵子さんに先立たれていますが、その
悲しみの究極を経験した後、やがて悲しみは光のようになって自分の
まわりに満ちてきて、生きているようにさえ感じられるようになるという
ことでした。

 彼女のいまの悲しみも、光のように思える日が来ますようにと願いながら
この本を読み終えました。





 



2017年9月18日月曜日

野分のまたの日こそ・・・



 昨晩は、一晩中、雨と風が強かったのですが、今朝は
台風一過の良い天気になりました。


 こんな朝は、野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ
と清少納言が書いた枕草子の言葉をいつも思い出してしまいます。


 野分のまたの日というのは、台風一過の翌日のことで
まさにきょうのような日のことですが、強風で落ちた庭のヤマザクラの
葉が、庭のあちこちに散っていてすてきでした。


 まだ昨晩の雨に濡れていて、朝日に照り映えていました。


 この「野分のまたの日こそ」という段には、台風が荒らしていった
庭の様子を見ている17,8歳の女性が出てきます。


 その女性がしんみりとした様子で外を眺めていて
「むべ山風を・・・・」などと口づさんでいる姿も
すてきと清少納言は、書いています。


  「むべ山風を」というのは、古今集に出てくる文屋康秀の歌で
こんな歌です。
 「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を
          嵐といふらむ」



 ひと吹き風が吹いたばっかりに、秋の草木がなびき伏すので
山風を嵐というのも、当然のことでしょうねというような意味でしょうか。

 この女性とは、清少納言は自身のことを言っているのかもしれませんね。
 

2017年9月12日火曜日

赤とんぼと、ワレモコウ



 赤とんぼが、ワレモコウに止まっているのを見るのは、この季節の好きな
風物詩です。



 赤とんぼには、青く澄み切った空が似合うと思うのですが、
今年の夏は、ずっと青空を見ていませんでした。
 きょうは、ようやく青空が少しだけ見えています。



 赤とんぼに、指を差し出してみたのですが、やはりワレモコウの方が
居心地が良いみたいで、指には止まってくれませんでした。



散歩から戻りましたら、玄関前の植木の竹に、ひょうきんにも見える顔の
赤とんぼが止まっていて、思わず苦笑してしまいました。


 赤とんぼは、赤いのが雄で、雌は黄褐色ということなので
これは、雌のようですね。