2022年6月25日土曜日

読書・「犬と私」江藤淳著・三月書房

 

 

 散歩していると、道端に白い花が一面に落ちているところがあります。上を見ると真っ白のかわいい「エゴノキ」の花がこんなふうに咲いています。花が終わったあとは、みどりの実が連なって下がっているのを見るのも好きです。



 江藤淳さんのエッセイ「犬と私」を読みました。江藤淳さんの本は、「決定版 夏目漱石」「リアリズムの源流」 「荷風散策 紅茶のあとさき」に続いて3冊目の読書でした。

 このエッセイは、20代のころ、江藤さんがアパート暮らしを引き払って、念願の犬を飼える家に住んだところから始まります。子供のいないご夫妻は、ダーキイというコッカー・スパニエルを飼うのですが、犬好きの人にはすぐにわかるように、かけがえのない家族の一員となり、次第に犬馬鹿になられていく過程が書かれていて、共感を持って読みました。

 犬の話のほかには、アメリカに住んだときのこと、帰国後のいろいろな話も書かれているのですが、わたしが好きなのは、思いがけず美しいものを見たとおっしゃる「朝焼け」というエッセイです。

 それは、江藤さんが徹夜で仕事をなさったときに見た朝焼けで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の舞台にでも出てくるような豪華で見事なシーンだったとのこと。  

 このような光景に出会えるのは、多分生涯に一度のことかもしれませんが、実はわたしも同じようなことがあったのを思い出しました。それはもう10年以上も前のことですが、アメリカから一時帰国なさっていた知人と、わが家で徹夜で語り明かしたことがあったのです。

 夜が明けるころ、ちょうど山の端がすばらしい朝焼けに染まり、パバロッティの歌うオペラのアリアとともに朝日がゆっくりと昇っていったのでした。あの光景は、いまでも忘れられません。

 江藤さんは、見事な朝焼けを見ることができたのは、徹夜での仕事のおかげと書かれていますが、わたしの場合は、知人のおかげかもしれません。人生のすてきな思い出をひとつ、わたしに思い出させてくれたエピソードでした。



 この本を出版した三月書房について、江藤さんはこのように書かれています。この三月書房は、こころのこもったあたたかい随筆集のシリーズを、女性がおひとりで出版なさっておられること。そしてこのような心のこもった扱いを受けるに値するような本をこれからも、書いていきたいと・・。

 これは、「読み返せる本」というタイトルの中で言われているのですが、わたしには江藤さんの評論家としてのマニフェストのようにも思えました。

 さっと、軽く読めるエッセイですが、江藤淳さんの意外な深い一面をのぞかせてくれる本でもありました・・。




2022年6月23日木曜日

ボードレールの「猫」の詩・・・

 


 フランスギクが、道端のあちこちで咲いているのをよく見かけるようになりました。この花は、ヨーロッパ原産の多年草で、観賞用として日本に持ち込まれたものが、野に逃げ出して繁殖した帰化植物とのこと。英国に住んでいたときには、OX_EYE DAISYとよんでいたのですが、わたしは、牛の目というよりは、金色の猫の目のようにも思われます。


        


 フランスの詩人のボードレールは詩集「悪の華」に、猫の詩を3篇も書いています。その中でわたしが好きな「猫」の詩は、最後の3つ目ですが、こんな詩です。引用してみますね。

                    「悪の華」ボードレール 安藤元雄訳より 

・-・-・-・-・-・-・

         「猫」    [LES  CHATS]

   熱に浮かれた恋人たちも いかめしい学者たちも

   同じように好きになるのだ、円熟の季節が来れば、

   堂々としてやさしい猫、わが家の誇り、

   飼主と同じく寒がりで、同じく外出嫌いの猫を。


   学問の友でもあれば快楽の友でもあって、

   猫は沈黙を求め、暗闇(くらやみ)の恐怖を求める。

   地獄の王(エレポス)ならば、これを柩車(きゅうしゃ)の馬に採用しただろう。

   もし猫が誇りをまげて人に仕えることさえあれば。


   物思いにふけるときの その気高い態度ときたら

   人けのない沙漠( さばく)の涯(はて)に横たわる巨大なスフィンクスが、

   永久にさめない夢の中へと眠りこんで行くようだ。


   その腰は豊かに 魔法の火花にみちあふれ、

   金のかけらが、砂粒のように細かく、

   彼らの神秘な瞳(ひとみ)にかすかな星を光らせている。

   ・-・-・-・-・-・-・

  引用は、「悪の華」ボードレール著 安藤元雄訳 集英社文庫 175p~176p

です。


 

  何度読んでも、この詩人は、猫の本質を理解しているようで、猫もこのように詩人に歌われたら本望かもしれないなあと、いつも思ってしまうのですが、やはり好きな詩です。

 


                    



  




 


2022年6月7日火曜日

読書・「永遠の故郷 真昼」吉田秀和著・集英社

 


 この青もみじは、東京都内の文京区にある永青文庫で写しました。白い壁を背景に、もみじの葉が6月の陽射しに揺れて緑のグラデーションを作っていたのが、とてもすてきでした。



 大好きな吉田秀和さんの本を久しぶりに読みました。「永遠の故郷」という題名の4冊のシリーズ本の3冊目、「永遠の故郷 真昼」というタイトルです。

 「歌曲」と「詩」についての考察ですが、吉田さんの人生のひとこまのことも書かれていて、自伝のようにも読める本でした。

 「間奏曲」の章の書き出しは、あのいつもの吉田さん独特の、話しかけるような言葉、「ここでおしゃべりしていいかしら。」・・でした。わたしはもちろん「はい、はい、どうぞ、どうぞ。」と思わずつぶやき、苦笑してしまったのですが・・。



 それは、吉田秀和さんがまだ青年のころのお話でした。

 イタリアのヴェネツィアに行く途中、汽車の中で出会ったイタリアの青年に是非にと誘われ、パドヴァに寄られたとのこと。

 吉田さんはそのパドヴァで、ジョットのフレスコ画をご覧になり、心底震駭なさったことから、絵画は宇宙のすべてであるというのを知り、

 また、内心の深いところにあるものがとけあっている歌と踊りが、ひとつになっている姿が音楽であるということを、確信させてくれたのが、イタリアだったと書かれています。

 そして、マーラーの歌曲「アントニウスの魚説法」を紹介なさり、

 この曲は、あの汽車の中で知り合った青年のパドヴァでの下宿の女主人が暗示した、「踊りながら歌う」という2つのことがいっしょになった「音楽」が、思い出されるとのことでした・・。

 


   わたしは、「告別」の章で見つけた言葉・・

 「ー死はまた尽きることのない白雲の彼方にある永遠の故郷の青さに通じる不変性そのものでもあるー」

                              引用147p

 が、心に残ったのですが、やはり、吉田秀和さんは、詩人でもあったようです・・。