2026年8月17日月曜日

読書・日本の名随筆63「万葉三」中西進編 作品社   (万葉集の歌と、ロメオとジュリエット・・・)

 

 7月の下旬に「ヤマユリ」が咲き終わるころ、林の薄暗がりで「ウバユリ」が静かに咲いていました。緑がかった白い花は、気品が感じられ、そっと浮かぶように見えます。

 花が咲くころに、葉が枯れてしまうため「ウバユリ」と名づけられたようですが、そのひびきにはどこか切なさがあり、心に残りました。

 林の奥でひっそりと咲く「ウバユリ」は、そこだけ美しい時間が流れているように感じたのでした。

 林の静けさが、ふと先日読んだ万葉集の一首を思い出させたのでした・・。



 日本の名随筆を集めた作品社の「万葉三」を、再読しました。

 この本は、万葉集に関する随筆を、中西進さんの編で20集められているのですが、今回はその中の「日本古代詩歌の魅力 ー-ウェーリーの訳を通して」という題の平川祐弘さんの書かれた随筆をおもしろく読みました。

 平川さんは、比較文学者とのことですが、万葉集の詩歌を、アーサー・ウェーリーさんの英訳と比較して紹介なさっています。


 万葉集巻七(一二六三)

暁(あかとき)と夜烏(よがらす)鳴けどこの山上(をか)の木末(こぬれ)の上はいまだ静けし                               作者不詳


この作者不詳の万葉集の和歌を、ウェーリーさんは、このように改訳なさっています。

・-・-・

HE.      'Dawn,dawn,dawn!' the crows are calling.

SHE.   Let  them  cry!

             For  round  the  little  tree-tops

             Of  yonder  mountain

             The  night  is  still.

男、 「夜明けだ、夜明けだ」と烏(からす)たちが時を告げている。

女、 鳴いても構わないわ。

   だって向こうの山の

   梢のあたりは

   まだ夜が静かなのですもの。

・-・-・-・     引用223~224p


 アーサー・ウェーリーさんのこの改訳は、小さな光のようなものを感じました。

 平川さんは、このウェーリーさんの改訳の英詩を読むと、わたしたち日本人は、シェイクスピアの「ロメオとジュリエット」のバルコンでのきぬぎぬの別れを惜しむ場面を、連想するのではと、言われていますが、わたしも同じように思ったのでした。



  そして次に、平川さんは、「ロメオとジュリエット」の同じ場面を、紹介なさっています。

・-・-・-・    

ジュリエット もう行ってしまうの?朝にはまだ間(ま)があるわ、いま聞こえたのは雲          

       雀(ひばり)ではなくてよ。

ロメオ    いや朝を告げる雲雀だ。ほら、ごらん、あの向こうの東の空を、ほがらかな 

       朝がはや霧を破って山の頂きにつま先き立ちに立っている。

・-・-・-・      引用224p


 平川さんは、ウェーリーさんが、万葉集の歌を英訳なさるときに、彼と彼女との対話として、人間味の強い会話にドラマタイズなさったのは、イギリスの読者に理解されやすくするためと、分析なさっています。

 そして、詩というものは、その国の伝統的な雰囲気にうまく合わないと、詩情がいきてこないのではとも・・。

 アーサー・ウェーリーさんは、世界の詩の中で日本の和歌ほど外国語に翻訳しがたいものはないともいわれており、何よりも和歌の詩情を大切に尊ばれていたとのことです。

 それにしても、あの源氏物語の英語の名訳で知られているアーサー・ウェーリーさんが、万葉集の歌をこのように、大胆に改訳なさっていたとは、やはり文化の違いは、おもしろいと思ったのでした。

 そして、万葉集の歌のしずけさと、ロメオとジュリエットの劇的な朝の気配がひとつの光景として感じられたのでした・・。

 

2026年8月12日水曜日

読書・「王朝百首」塚本邦雄 講談社文芸文庫     (「花筐」としての本・・・)

 


  オカトラノオという面白い名前の花が咲いています。虎の尾に似ているから名付けられたとのことですが、かわいらしい小さな白い5弁の花が星を集めたようにいっぱいついていて、見るたびにいつも、舞妓さんの「はなかんざし」にしたら、似合うのではないかしらと、思ってしまうのです・・。




  「花筐」という美しい言葉があります。

 花などを入れる籠のことですが、うつくしい和歌を集めて入れた花かごと考えますと、この本はまさに、「花筐」だと思うのです・・。

 塚本邦雄さんが書かれた「王朝百首」は、本箱にある彼の14冊ある本の中では、いちばん多く読んでいる本かもしれません。

 この本の解説を書かれている橋本治さんの文は、何度読み返しても、読み返すたびにいつも、感服してしまうのですが、橋本治さんは、この「王朝百首」は、日本国民必読の書と、断定なさっているのが、彼らしいなあと思ってしまいます・・。

 橋本さんは、もう亡くなられていますが、1974年の12月、26歳のときに、はじめて書店で函入りのこの本を函からだして、ご覧になられ、そのときに、そこにはただ「美しいもの」が、並んでいたとのご感想なのでした・・。



 この「王朝百首」を書かれた塚本邦雄さんは、前衛歌人ですが、「小倉百人一首」に秀歌はないと断定なさり、王朝の和歌の中から、彼の審美眼で選び抜かれた百首を、掲載なさっていて、見事です。

 塚本さんによれば、王朝の和歌は、日本の言葉の「さはやかさ」「あてやかさ」であり、それを現代によみがえらせたいという趣旨でこの「王朝百首」という詞華集を編まれたとのことです・・。


わたしが一番好きな歌人の式子内親王の和歌からは、2首選ばれています。

  「盃に春のなみだをそそぎけるむかしに似たる旅のまどゐに」     式子内親王

  「ほととぎすそのかみ山のたびまくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ」   式子内親王

定家からは、

  「移香(うつりが)の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ」  藤原定家

そして、塚本さんの最愛の歌人とおっしゃる、藤原良経の和歌からはこの2首です。

  「あすよりは志賀の花園まれにだにたれかはとはむ春のふるさと」    藤原良経

  「さびしさや思ひ弱ると月見ればこころの底ぞ秋深くなる」       藤原良経


 美しい和歌を集めて入れた花かごである「花筐」という言葉がぴったりの本だと改めて思ったのでした・・。



 

 

 

2026年7月25日土曜日

読書・「プルーストへの扉」ファニー・ピション著 高遠弘美訳 白水社  (再読・・・)

 

 先日、梅雨が開け、ようやく高原にも本格的な夏がきました。夏の花は、何といってもヤマユリがプリンセスですが、今年は蕾をつけたままの1メートルを超すたくさんのヤマユリの球根がイノシシに食べられてしまったのです・・。散歩道や公園の道がわのへりにそって無数の掘られた穴の跡があり、根元の茎をかじられてしまったヤマユリが蕾をつけたまま、残っているのを見るのは辛く、とても残念でした。

 下の写真は7月20日の海の日の朝に咲いたばかりのヤマユリです。厳しい自然環境のなか、健気に咲く姿には、元気をもらえうれしくなったのでした・・。




 高遠弘美さん訳の「プルーストへの扉」を、再読しました。最初に読んだ感想をこのブログに書いたのは、2022年の8月30日でしたが、第一冊の発行が2021年の2月ですので、まだ新刊のころに購入した本でした。

 今回、気づいたのは、後ろの「本書に登場する固有名詞索引」と写真入りの「プルースト関連年表」そして、くわしい「文献目録」があることでしたが、翻訳者の高遠弘美さんの読者に対する親切心から書かれたのだと思いました。

 再読してみると、この本は、学術書とは違いきわめて平易に書かれていて、読みやすく、それでいて、内容が濃く、著者のピションさんは、パリ高等師範学校をご卒業なさってから、現在もリセで、教鞭をとられているということなので、納得でした。

 ピションさんは、ランボーについても、この本と同じシリーズで本を出版なさっているとのことなので、翻訳されれば、是非読んでみたい本です。


 

 今回の読書で、いちばんこころに残ったのは、「人生の至高の価値は藝術のうちにある」ということを、プルーストは作品の中で語っているということでした。

 音楽や絵画は、芸術家の深い内面を表現しており、事物に対するあたらしい視点を表現してくれている。

 そしてあの有名なプルーストの言葉である「ほんとうの旅とは新しい風景を見に行くことではなく、自分とは異なる眼を持つこと・・」

 それをわしたちに可能にしてくれるのは、絵画や音楽などの「芸術家」である・・。

 ピションさんは、プルーストはそういう確信をもっていたので、語り手が小説の最後で、自分も芸術家として言葉で表現する作家になるという決意を示したのだと、語られています。

 プルーストが最後に「書くこと」を決心したのは、彼が藝術家をとても愛していたからだとも・・。

 

 


2026年7月16日木曜日

読書・「源氏物語の世界」中村真一郎著 新潮選書         再読(プルーストの文学との接点・・)

 


 先日、雨上がりに散歩していますと、タケニグサの大きな葉っぱの上に、雨粒が水晶玉のように、一瞬きらりと光って見えました。

  よく見るとまわりの世界が映っていて、まるで清らかなこころが宿っているようにも見えたのですが、このようにきれいなこころで、まわりの世界を見ることができたらすてきだろうなあと、ひそかに思ったのでした・・。



 中村真一郎さんが書かれた「源氏物語の世界」を、再読しました。前回読んだのは、2022年5月11日で、このブログにも感想を書いています。

 今回もやはりいちばん心に残ったのは、プルーストとの接点でしたが、どうして「源氏物語」が、世界の文学的遺産となったのかという考察も、再確認したのでした。

 1920年代のイギリスでは、世界の知的中心のひとつとして、ブルームズベリーというグループがあり、小説家のE・M・フォースーや、ヴァージニア・ウルフなどがメンバーだったとのこと。

 彼らは、ジョイスとプルーストを、文学界に紹介しているのですが、同時期に、アーサー・ウェイレーの翻訳した源氏物語も、プルーストなどと同じ等質の文学として、紹介されたとのことでした。

 中村真一郎さんによれば、ウェイレーの源氏物語の英語の翻訳は、知的で優雅で凝っており、まさにブルームズベリー的とのことですが、わたしも彼の英訳の冒頭を読んでエレガントだと感じたのを思い出します。



 また、中村真一郎さんは、紫式部の「源氏物語」と、プルーストの「失われた時を求めて」の共通点として以下の4つを挙げられていました。

1・人間のこころの奥へ照明をあたえた。

2・美に対する繊細な趣味。

3・時間に対する形而上学的な重要さ。

4・社交的な生活への興味。 

 わたしもこの4つは、なるほどと納得したのですが、さすが、フランス文学と、源氏物語に造詣が深いご高察だと思ったのでした。

 さらに、中村さんは、ブルームズベリーのグループから、「プルーストは新しい文学として」、「源氏物語は、新しい古典として」認識され、世界文学のなかに登場したのだとも、述べられています。

 この本は、源氏物語を再読し、再確認するようにも、楽しく読むことができたのですが、さらには、源氏物語がいかにして、世界の文学の古典として認知されるようになったのかや、プルーストの文学との接点まで知ることができた、忘れがたい一冊になったのでした・・。

 


 

2026年7月3日金曜日

読書・「フランス文学者の誕生 マラルメへの旅」鈴木道彦著 筑摩書房 (世界は一冊の美しい書物に近づくべく出来ている・・)  

 

 昨日、散歩していましたら、まだノイバラが咲き残っていました。このブログにも数回写真を載せていますが、今年のノイバラです。

 つぼみは、ほんのり紅がさしていていつものようにかわいいのですが、花びらが一枚、「ハート形」になっていてサプライズでした。

 ちいさな自然の驚きは、いつもわたしの心をあたたかくしてくれるのですが、遠い時代に生きた文学者の方々のことも、なぜかなつかしく思われるのでした・・。



 鈴木道彦さんが書かれた「フランス文学者の誕生 マラルメへの旅」を、読みました。

 鈴木道彦さんは、プルーストの「失われた時を求めて」を井上究一郎さんに続いて2度目に個人全訳なさった方ですが、この本は、彼の父である鈴木信太郎さんについての評伝で、「鈴木信太郎さんは、いかにしてフランス文学者になったのか」ということが書かれています。

 鈴木信太郎さんは、1895年(明治28年)に地主と米問屋という恵まれた資産家の総領として誕生なさっています。そして、当時は、このことが「フランス文学者の誕生」にとっての大事な下地になられたのだということが、理解できました。

 事実、後に東大仏文科をいっしょに活性化なさった辰野隆さん、山田環樹さんも恵まれた資産家のご子息だったとか。(余談ですが、山田環樹さんの最初の妻だった森茉莉さんのエッセイで、パリでの生活のことや、辰野さんのお名前も出てくるのを読んだことがあります。)

 信太郎さんは、1925年30歳のとき、パリに私費で留学なさっているのですが、そのときには、芝居を観ること。本を買うこと。そして中世のフランス語を勉強するという3つのことに熱心にとりくまれた優雅な生活だったようです。

 帰国後にそのときに購入なさった貴重な本などを入れる鉄筋コンクリートの書斎を作られたようですが、第二次世界大戦の戦禍のときにも本は、無事だったとのこと。




  戦前から戦後にかけて東大仏文科の卒業生として、中村光夫さん、寺田透さん、森有正さん、吉田秀和さんがいらっしゃり、そして、辰野隆さんが小林英雄さんと三好達治さんのことを「日本一の評論家と詩人」と評されたことなどもあり、信太郎さんにとっても卒業生たちが自慢だったのだとか・・。

 わたしも吉田秀和さんの本は、読んでいますし、彼のファンでもありますが、それにしても、きら星のような方々が、日本の文化に貢献なさっているのだと実感します。

 さらに、道彦さんは、「ご自分に近いところで」として、卒業名簿に昭和16年(1941年)の卒業の中村真一郎さん、福永武彦さん、昭和18年には白井健三郎さんのお名前があることに注目なさり、医学部だった加藤周一さんも東大仏文科の研究室には絶えず出入りなさっており、戦後に華々しくデビューの「マチネ・ポエチック」を生む土壌にも、仏文科はなったのではと、推論なさっています。

 道彦さんは、中村真一郎さんのことを多く語られており、卒業のときの信太郎さんとのエピソードなどは、とくにおもしろく読みました。  

 中村真一郎さんは卒業の直前になって、一単位が足りないことに気づかれ、レポートで単位のとれるシナ文学科の「古詩源」の演習のレポート提出のアドバイスを、信太郎さんに求められたそうです。信太郎さんは、ヴァレリーの序文のついた陶淵明の仏訳豪華本を取り出して中村さんに読ませ、仏訳を原文と比較しながら、おふたりでレポートを完成し、見事に翌日の提出日まで間に合ったのだとか・・。

 信太郎さんは、1945年に「ステファン・マラルメ詩集 考」で文学博士の学位を取得なさったとのことです。

 書斎には彼のデザインの5枚のステンドグラスにまたがる形で、マラルメのあの有名な

        「世界は一冊の美しい書物に近づくべく出来ている」

 という文字がフランス語で記されているとのことです・・。

 



※鈴木道彦さんは、この本を80歳を過ぎてから書かれています。父の信太郎さんの書斎のある旧居を豊島区に有形文化財として、寄付なさっていますので、そこを訪ねる方のために、鈴木家の歴史を書き残しておきたいとのご趣旨でこの本を書かれたとのことでした・・。


2026年6月15日月曜日

読書・「プルーストによる人生改善法」アラン・ド・ボトン著・畔柳和代訳 白水社 (プルーストするとは・・)

 

 雨の日が多いこの季節になりますと、コアジサイのさわやかな香りが漂ってくるようになりました。 コアジサイに香りがあるのを知ったのは数年前ですが、梅雨の季節のうれしい発見でした。 花の色も薄水色でさわやか・・。 まるで、サイダーの泡がプチプチと、はじけたようで見ていると気分も明るくなりそうです・・。



 アラン・ド・ボトンさんが書かれた「プルーストによる人生改善法」を、再読しました。 最初に読んだのは、2018年の1月29日で、このブログにも感想をアップしています。

 今回、おもしろいと思ったのは、第六章の「よき友になる方法」で、その中の「プルーストする」という動詞についての著者の考察がユニークなのでした。

 著者によれば、「プルーストする」とは、プルーストの友人たちが、仲間内で創造した言葉のことで、「プルーストが良き友人を得るために、相手に高価なプレゼントや、お世辞の誉め言葉を浴びせていた」という行為を指していたようです・・。 

 その典型的な例として、ロール・エイマンという有名な高級娼婦、そしてもうひとりは、詩人で小説家のアンナ・ド・ノアイユをあげているのですが、もちろん彼女たちは「プルーストにプルーストされ」、プルーストの友人になったのでした。 

  わたしは、このプルーストするという行為の裏には、彼女たちとの交流を通じてあたたかい愛情や親切心などの、人間としての「ぬくもり」が欲しかったというプルーストの切実な気持ちがよく表れているようにも思ったのですが・・。 

 アランさんは、この行為を分析し、プルーストはあまりにも繊細に「プルーストした人生」を生きたので、その解毒剤として、「失われた時を求めて」を、書いたのではとの結論で、パロディとしてしめくくっていることに、クスリとしたのでした。



 そもそも、「失われた時を求めて」のような小説を書くプルーストが、人間観察や心理分析に長けていたのは自明て、「友情をあざ笑う人々は・・・・世界で一番立派な友人になりうる」。 と、言ったとか・・。

 わたしは、ラ・ロシュフコーの書いた「箴言集」を、思い出してしまったのですが、フランス文学とは、このようなものだという白眉のような「失われた時を求めて」は、アランさんのような現代の哲学者にとっても、料理するのには、おもしろい素材がいっぱいある作品なのだと実感した読書でした。 



 

2026年6月5日金曜日

読書・「『失われた時を求めて』への招待」吉川一義著 岩波新書 (吉川一義さんのプルースト研究の清華の1冊・・)

 

 6月に入り、散歩道や庭などに、ニガナが次々に咲くようになりました。ニガナの花びらは5枚ですが、花びらが7~12枚もあるのがハナニガナです。花びらが白いシロバナニガナもときどき見かけます。茎を切ると、粘り気のある乳液がでてくるのですが、この乳液をなめると苦いので、この名前が付いたとのこと。ニガナはゆでると少し苦いのですが、食べられるそうです・・。

 茎は細くて長いので、少しの微風にもゆらゆらと揺れ、蝶が舞っているようにも見える、愛おしい花です。

 



  「『失われた時を求めて』への招待」を、再読しました・・。

 著者の吉川一義さんは、「失われた時を求めて」の翻訳者でもありますが、わたしはこの本を、立教大学で開かれていた「新訳でプルーストを読む」というセミナーに参加して、全巻読了したというなつかしい思い出があります。

 最後の14巻が発行されたのは、2019年の11月15日で、わたしが最後の14巻を読了したのは、2019年の11月29日でした。吉川さんは、ほぼ10年かけて翻訳なさったとのことですが、彼の講演をお聞きしたときに、「毎日、翻訳のため机に向かうのが、日課だった」とおっしゃっていた真摯なお姿が、とても印象に残っています。

 吉川一義さんの「失われた時を求めて」の岩波文庫版の翻訳は、端正で正確、図版も多く、注が、同じページ内にあるのも読みやすく、最後の14巻には、人名や地名、作品名が、網羅されて載っているのも、好感を持ちました・・。



 吉川一義さんは、「プルースト美術館」や「プルーストの世界を読む」「プルーストと絵画」などの著書もあるプルースト研究者ですが、この「『失われた時を求めて』への招待」という本は、まさに彼の研究の清華であるプルーストの本の核心を、書かれているように思いました・・。

 本の帯には、

・-・-・-・

「ついに発見された人生・・・それが文学である」-プルースト

        ・-・-・-・

と、書かれているのですが、この言葉の意味が、くわしく本文で説明されています。

 彼は、あとがきで「プルーストの小説の大きな魅力は、登場人物たちの実に滑稽な言動にあるので、読者がみずから発見して楽しんでほしい」とも、書かれているのですが、わたしも楽しんで読んでいますから、共感でした。

 本の最後に、「プルーストとその作品に関する近年の主要な文献」がくわしく載っているのも、好感を持ちました。わたしのようなプルーストファンにとっては、ここを読むだけでも十分に楽しめますので・・。

 吉川一義さんの長年のプルースト研究の精華がよくわかる本で、このような本を書いていただいたことに、感謝した読書でした・・。

 この本は、2021年6月に第1刷が発行されています。