2023年12月2日土曜日

植物・2023年のイチョウの黄葉




 今年は思いがけず那珂川河畔公園ですばらしいイチョウの黄葉を見ることができました。



 イチョウは、中国原産で日本に入ってきたのは室町時代ころという説もあるようですが、どうりで万葉集や古今和歌集・新古今和歌集などには詠われていないのですね。

 山渓の「日本の樹木」という本によれば、樹高は45メートル、直径も5メートルぐらいにはなるということですが、中生代の植物の生き残りで生きた化石植物とも言われているようです。


 

 イチョウの黄葉は、青い空をバックにすると色彩のコントラストがとてもすてきですが、地面いっぱいに広がっているのも、目が覚めるようでとてもきれいです。



 俳人の星野立子さんは、

         美しき銀杏落葉を仰ぐのみ

 という俳句を作られていますが、今年見たイチョウの黄葉は、ほんとうにこの句のように美しかったです。ちょうど見ごろに 出会えたのは、ラッキーでした。

 この公園のイチョウは、まだまだ若木ですので、これから大木になるのが楽しみです!!!

 




2023年11月25日土曜日

読書・須賀敦子全集第5巻 河出文庫 「ウンベルト・サバの詩」


 

 散歩道の木々の紅葉は、もう大分散り始めているのですが、まだ残っているニシキギの葉は、行儀よく並び、かわいらしく風にゆれていました。


      


 須賀敦子全集の5巻にイタリアの詩人のウンベルト・サバの詩が載っていました。サバの詩は須賀さんの本ではじめて知ったのですが、その中でも特にこの詩が好きです。

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娘の肖像

         ウンベルト・サバ  (須賀敦子訳)


毬を手にもった、ぼくの娘は、

空のいろした、おおきな目をして、

かるい夏服を着て、パパちゃん、

と言う。今日はいっしょにおでかけしたいの。

ぼくはつくづく考える。この世でとびきりに

みえる物たちのいったいどれに、ぼくの

娘をたとえるべきか。たとえば、

泡。しろい波がしらの海の泡。青く、

屋根から立ちのぼっては風に散る、けむり。

そして、雲。あかるい空に、かたまっては、くだけ、

くだけては、かたまる、あるかないかの雲。

軽くて、漂う、すべてのものたちに。

・-・-・-・-・-・        引用244p


           オトコヨウゾメの実

 須賀さんは、この詩を2度訳していらっしゃるのですが、わたしはこちらの訳が好きです。特に「パパちゃん」と訳された須賀さんの言語感覚には、脱帽でした。
 
 まりを手に持ち、空の色した大きな目の女の子が、「パパちゃん」とサバに呼び掛けている姿・・、そして、目にいれても痛くないほどの愛情をもって我が子を見つめているサバの姿が目に浮かぶようです。

 世界中のパパの娘に対する愛情が、この詩に凝縮されているようにも思えてくるすてきな詩だと思います。

  サバは、トリエステに生まれた詩人ですが、現代イタリアでウンガレッティとモンターレと並んで三大詩人と言われているとか。

 わたしにとってトリエステは、旧ユーゴスラビアからベネチィアに行くときに、バスに乗り換えて通過したことがある街というだけなのですが、サバが住んでいた街だったのだと思うとなつかしいような特別なところに思えてなりません。


             ノイバラの実


 須賀さんによれば、サバは母親がユダヤ人だったために、第二次世界大戦中は国内を転々として苦労したようです。彼の詩を読むと、彼の妻や娘、そしてトリエステの街に、かぎりなくやさしい愛情を持っているのがよくわかりますし、平易な言葉で深いものを表現しているところも好きです。

 

            サルトリイバラの実


  サバの詩を、配偶者のペッピーノさんから初めて手渡されて読んだ須賀さんは、それ以来サバの詩のとりこになったようですが、わたしも須賀さん翻訳の彼の詩が好きになりました。

 


2023年11月10日金曜日

読書・「一杯のおいしい紅茶」ジョージ・オーウェル著 中公文庫

 

 ムラサキシキブの実が、あちこちで見られるようになりました。ムラサキシキブとは、実の美しさを紫式部にたとえたネーミングとのことですが、学名の「Callicarpa japonica」のCallicarpaとは、美しい果実という意味だそうですから、なるほどと納得でした。

 散歩道に自生しているムラサキシキブは、渋いむらさき色で、ゆかしい感じがします。




 
  ジョージ・オーウェルの書いた「一杯のおいしい紅茶」を読みました。
    
 彼は二十世紀の英国の作家で批評家ですが、この本は、彼の随筆をまとめた一冊です。題名にもなっている「一杯のおいしい紅茶」という章は、紅茶好きの英国人らしいこだわりが感じられました。

 実はジョージ・オーウェルのおいしい紅茶のいれ方というのは、以前にどなたかの紅茶に関するエッセイで引用されているのを読んだことがあり、ずっと読みたいと思っていた本でした。

 オーウェルは完全な紅茶のいれかたには、ゆずれない11項目があると語っているのですが、それは、以下の11とのこと。

1・紅茶の葉は、インド産かセイロン産にかぎる。

2・かならずポットでいれること。

3・ポットはかならずあたためておくこと。

4・紅茶は濃いことがかんじん。

5・葉はじかにポットにいれること。

6・ポットのほうをやかんのそばに持っていくこと。

7・紅茶ができたあと、かきまわすかポットをよくゆすって葉が底におちつくまで待つこと。

8・カップは浅くて平たいのではなく、ブレックファーストカップつまり円筒形のものを使うこと。

9・ミルクは乳脂分をとりのぞくこと。(濃いミルクではなく普通のミルクということかと思います。)

10・紅茶を先にカップにいれ、次にミルクをいれる。

11・紅茶には砂糖をいれてはいけない。



 彼らしいこだわりだと思いますが、英国に10年近く住んでいた紅茶好きのわたしとしても、彼の考えにほとんど賛成です。

 わたしが英国に住んでいたときには、いつも英国人の友人と1週間に一度、日を決めてお互いの家で交互にteatimeをしていました。

 彼女の家でのteatimeのときには、彼女が使用していたのは茶色の陶磁器のティーポットで、使い込んでいていい感じでした。彼女の紅茶のいれかたはこんな風だったのを覚えています。

・水道からケトルに水をいれて火にかけ、沸騰したら、しばらくの間火を弱めて沸騰させたままにしておく。

・その沸騰したお湯をポットにいれてあたためてから捨て、そこに分量の茶葉をいれ、さきほどの沸騰したままのお湯を注ぐ。

・スプーンでぐるぐるとかきまぜてふたをし、彼女の手編みのティーコーズィをかぶせてしばらくおく。

・カップに注ぐときには、茶こしのようなストレイナーを使い、注ぎ終えたらミルクピッチャーで普通の牛乳をいれてスプーンでまぜ、砂糖なしで飲む。

 いつもそんな感じでした・・・。



 紅茶といっしょに食べたいつも同じの友人の手作りのパウンドケーキの味や、庭を見ながら話した野鳥や植物の話などなど・・。あの午後ののんびりとしたお茶のひとときは、英国生活の忘れられない素敵な思い出になっています。

  生活の中でTEAを楽しむ英国の文化が、ジョージ・オーウェルのいう「一杯のおいしい紅茶」に通じる生活の極意になっているのかもしれません。

 彼はとても英国人らしく、生活の細部にこだわり、それを楽しんでいるというのがよくわかりました。   

 英国の食べ物や、気候のことなど、自虐的なこともユーモアをまじえて書きながら、彼の英国に対する愛がいっぱい感じられる随筆でした。

 




 





2023年10月27日金曜日

読書・塩一トンの読書 須賀敦子著 河出書房新社

 


 昨年に見つけたわたしの秘密の紅葉スポットです。アカマツにからまっているツタウルシの紅葉が今年も見事でした。むらさき、ピンク、黄色、オレンジなどに赤も少し混じり、モザイクのようなパステルカラーがとてもすてき!!!

 こんなすてきな紅葉を見ると人生は美しいとさえ思えてきて、しあわせな気分になります!




 須賀敦子さんの「塩一トンの読書」を読みました。

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 「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」

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 須賀さんがイタリア人の義理のお母さまに教えていただいた言葉だそうです。


 

  ひとりの人を理解するのには、一トンの塩をいっしょに舐めるぐらいに長い時間がかかるということなのかと思いますが、須賀さんはさらにイタリアの作家カルヴィーノの古典の読書についての考えも紹介なさっています。

 それは、古典は読んだつもりになっていても、じっさいに読んでみると新しさにおどろくとのこと。

 そしてさらに前に読んだときとはすっかり印象までかわってしまうことがあるのは、読み手の人生経験が豊かになっていたり、読むための技術を身に着けたせいかもしれないとも、書かれています。

 



 わたしは10年以上まえからプルーストの「失われた時を求めて」を、読み続けているのですが、やはり自分の人生経験が豊かになるにつれて、新しい発見や、読書の喜びも深くなっていくのを実感しています。

   まさに「塩一トンの読書」とは、こういうことなのかなと思いました。





 







2023年10月8日日曜日

10月の公園にて・・

 

 余笹川ふれあい公園に行ってきました。風が強かったのですが、広々として気持ちの良い公園で、気分転換に最高でした。



 

10月に入り、一部の木々はきれいに紅葉していました。


ミニサブの後ろに見える象です。




ミニサブがワンちゃんの遊具で遊んでいると、



あっ、テラノザウルスだ!!!!!!!!!


あっという間に食べられそうになったミニサブ!


やばい! ピンチ、ミニサブ!!!



そのとき、那須おろしの強い風がビューーーーーーーと、吹いてきて、
ミニサブは落ち葉といっしょに、地面に転がり落ちることができました。


「ミニサブ、どうしたの?」
「ふ~~っ、いま、大変な目にあっちゃった。テラノザウルスに食べられるところだったの。」
「それは、大変だったね。でも無事で良かったね。」

「ありがとう、きょうはもう帰るよ。」


「パンダくん、バイバ~イ、また遊びに来るからね~」

2023年9月26日火曜日

映画・「ベニスに死す」ヴィスコンティの名作

 

  ススキが穂を出し始めました。ススキといっしょに、ツリガネニンジンの花が風に揺れているのを見ると、高原にも秋がきたなあと感じます。夏の終わりころには、ちらほらだったツリガネニンジンですが、いまではもうどこでもかわいい鈴のような花を見かけるようになりました。



  久しぶりにヴィスコンティの「ベニスに死す」を観ました。やはりこの映画はヴィスコンティの名作なのだと、しみじみと再認識しました。

 かすんだようなにじむ海の風景はまるでターナーの絵画のようにはじまり、最後のしっとりとした海の映像まで、さすがにすてきでした。そして、バックに流れるマーラーの曲もまるで特別に映画のために作られたように雰囲気がぴったりで、ためいきがでるほどでした。



 問題の美少年ですが、ヴィスコンティ監督は、さがすのにとても時間をかけて苦労したようです。この少年は後に「世界でいちばん美しい少年」と言われたようですが、当時は15歳だったとか。ギリシャ神話にでてくるような美少年ですよね。

 彼はセリフがほとんどなく、振り返って主人公の初老の作家アシェンバハにほほえみかける場面が印象的でした。彼の名前を呼ぶ「タッジォ~」という女性の声も、なぜか耳に残っています。



 舞台はリドの海辺と高級ホテル、ホテルの広間のインテリアとしてのピンクのアジサイがいくつも大きなマリンブルーの鉢に入れて飾ってあったのですが、そのころの流行だったのでしょうか、豪華でおしゃれな雰囲気で最初に映画を観たときから記憶に残っています。

 原作はノーベル文学賞作家のトーマス・マン。短編なので今回は集英社文庫の「ベニスに死す」で読んでみたのですが、後ろの解説にドイツ文学者でエッセイストの池内紀さんが、おもしろいことを書かれていました。

 トーマス・マンの死後に、彼の妻が回想記として「書かれなかった思い出」という本を発表され、その中にベニス行きのことも書いてあり、小説の中のエピソードは、ほぼ同じだったとのことです。

 トーマス・マンと妻は、イタリアに旅し、小説の主人公アシェンバハがたどったのと同じコースでベニスには蒸気船に乗っていき、ホテルに着いたその日に、あのポーランド人一家の母親と娘3人と少年がひとり、家庭教師という一行に出会ったのだそうです。

 トーマス・マンはその少年がととても気に入り、見惚れていたそうですが、少年の名前はよく聞き取れず、彼は少年に「タジュウ」とつぶやきかけていたそうです。


 マン夫妻はエレベーターでこの一家と乗り合わせたことがあり、身近で見た少年をトーマス・マンは虚弱体質であまり長生きはできないだろうと言っていたとか・・。

 ところが、トーマス・マンの死後9年目にポーランド貴族の末裔でタデウスという人が、ベニスに死すのモデルの少年は私だと名乗りでて、マン研究家が調べたところ、事実だと判明したそうですから驚きです。モデルが実在したのですから・・。



 そのモデルになったタデウスは、マンの予想に反して長生きし、かっての美少年はしわ深い、リュウマチ病みの老人になっていたとか・・。

 この映画で美少年を演じた俳優も、その後の人生を描いたドキュメンタリー映画「世界でもっとも美しい少年」の中では、やはりしわ深い老人になっているのを観ました。

 美は残酷で長続きするものではなく、映画や文学などの「芸術の中だけに美は永遠に残る」ということなのでしょうか・・。











2023年9月20日水曜日

自然・秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・

 


 いつもの散歩道ですが、小径のむこうから、涼やかな風が通りぬけてきそうです。



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 秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる

                         藤原敏行朝臣

                  ・-・-・-・-・-・

 あまりにも有名な古今和歌集に出てくる藤原敏行朝臣の和歌ですが、残暑が残るこの時期にぴったりだと、いつも思います。

 先日、天気予報を聴いていましたら、予報士の方がこんな話をなさっていました。「きょうは、西は夏の空気で、東は秋の空気です。」それを聴いて古今集の夏の最後のこの和歌を思い浮かべてしまいました。

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夏と秋と行きかふそらの通路(かよひじ)は
                   かたへすゞしき風やふくらん
                            みつね
             ・-・-・-・-・-・

 秋の空気のところは、涼しい風が吹くと言っているのですが、夏のところは、まだまだ残暑なのですね・・。     




  

 古今和歌集のよみ人しらずのこの歌も、好きな秋の歌です。

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このまよりもりくる月のかげ見れば 心づくしの秋はきにけり

                      よみ人しらず

                ・-・-・-・-・-・


 心づくしの秋とは、おしゃれな表現ですてきですね。秋の月はほんとうにうつくしいですが、そのまま見るのではなく、このまからもれる月の影に美を感じた作者の感性もすばらしいと思いました。

 


 いままでは、古今和歌集よりも新古今和歌集の方が、好きな歌人の歌もたくさん載っていて好きだったのですが、最近は古今和歌集の歌もいいなあと思うようになりました。

 ドナルド・キーンさんによれば、むかしのケンブリッジ大学では、日本語を読む学生は、「古今集」の序の勉強から始めたということですが、読んでみると、やはり名文でした。

 序とは、紀貫之が書いた「仮名序」は、のことですが、冒頭はこんな文で始まっています。

「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける。・・・・・」

  和歌は、人の心の中から生まれ、それが言葉となったものなのと言っています。

 秋めくいまの季節になると、古今和歌集の和歌がなつかしく思い出されるようになりました・・。