2019年1月29日火曜日

雪の夕暮れ・・



 きょうは、強風が吹き荒れる冬晴れの一日でした。
 昨晩に降った雪が5cmぐらい積もっていたのですが、強風にあおられて、地吹雪に
なっていました。
 少し風がおさまった後、いつもの公園に夕暮れの景色を見に行ってきました。




 雪の夕暮れを詠ったわたしの好きな歌があるのですが、こんな歌です。


♪春の花秋の月にも残りける
        心のはては雪の夕暮れ
                    藤原良経




 
 いつもすごい歌だと思うのですが、歌の意味は、こんな風に解釈しています。


  春爛漫を謳歌して咲く見事な桜の花・・
      秋の澄みわたった夜に輝く清明な月の姿・・
          それよりもわたしはむしろ、                      
            冬の夕暮れの静謐な情景に心がうばわれる・・





 この歌の作者は、新古今集の仮名序を書き、自身の歌も新古今集に79首も入っているわたしの好きな歌人の藤原良経です。
 新古今集には、摂政太政大臣良経と、書かれていますが、彼は九条家の始流である父の兼実の次男で、兄が若くして亡くなった後に、九条家の第二代になっています。
 歌人としてはもちろんですが、書道も後京極流として達人、漢詩にも造詣が深い教養人だったようです。

 そんな貴公子だった彼の歌の美学の極地が、雪の夕暮れだったのですね・・。










 

2019年1月26日土曜日

雪中花・・




 今朝は、昨晩遅くに降った雪が、根雪の上にさらにパフではたいたように白い化粧をしていました。ミニスイセンの鉢植えを、雪の上に持ち出し久しぶりに日光浴をさせてあげました。



 植物学者の牧野富太郎さんによれば、スイセンは、昔、雪中花(せっちゅうか)とも呼ばれていたことがあったと、いうことです。
 我が家のミニスイセンも、雪をバックに、雪中花になりました。




 そういえば、先日読んだ柳宗民さんの「日本の花」という本に、スイセンの興味深い話が書かれていました。
 わたしは以前から、日本海側の越前海岸にニホンスイセンの群生地があるのを、なぜだろうといつも不思議に思っていました。



 柳さんによれば、対馬暖流の影響で雪国でも日本海沿岸は、気候温暖なのでニホンスイセンが群生しているとのことです。そしてこのニホンスイセンは日本という名前にもかかわらず、日本原産のものではなく、中国からきたとのこと。それも中国福建省海岸地帯のスイセン群生地から、台風などで球根が漂流して越前海岸などにたどり着き、群生するようになったとのことです。



 さらに、中国のスイセンは、中国原産ではなく、スイセンの原産地である地中海からヨーロッパにかけての地方から、シルクロードを通って中国に持ち込まれたということです。
 柳さんは、イスラエルのゴラン高原の湿地帯に行かれたとき、ニホンスイセンと同じスイセンの花をご覧になられたとか・・・。
 スイセンをたどっていくのは、ロマンのあるお話しだと思いました。




 わたしにとってのスイセンは、ロンドンの公園で見た春風の中、群生して咲いていたラッパスイセンが忘れられない思い出の光景で、ワーズワースの詩、「水仙」へとつながっていく花でもあります・・。

 スイセンは、日本では昔、「雪中花」と呼ばれたということですが、わたしにとっては、春を待つ「春恋花」かもしれません。
 
 




2019年1月25日金曜日

青山七恵さん・プルーストを読む環境・・




 1月19日に開催された立教大学の公開セミナー「新訳でプルーストを読破する」第9回「ソドムとゴモラⅡ」に参加してきました。




  今回のゲスト講師は、2007年に「ひとり日和」で芥川賞を受賞なさった作家の青山七恵さんでした。青山さんは、以前にプルーストを少しだけ読まれたことがあり、その時に、プルーストを読むのには、入院というような読む環境が必要だと思われたということでした。その場合、もちろん深刻な病気ではないような入院ということでしたが・・。
 



 青山さんはその後、海外の作家を長期滞在させてくれる制度で、フランスに2か月滞在なさることができ、その時に、プルーストの「失われた時を求めて」の4巻を持参なさり、読まれたということでした。




 わたしの場合は、井上究一郎さん個人全訳が出たのをうれしく思い読みはじめたのですが、時間的な環境というよりは、やはり今回の企画のように、全巻を読み進めるために、同じ本を読むメル友がいたというのが、とても励みになったのを覚えています。
 



 井上究一郎さんの記念すべき個人全訳の1冊目は、1984年筑摩書房から刊行されています。全18巻で刊行の単行本でした。

 早速、購入したのですが、単行本で読んだのは最初の1冊だけで、全巻読んだのは、文庫化されてからの、ちくま文庫の全10冊でした。





 次の鈴木道彦さんの訳のときには、もうすっかりプルーストファンになっていました。
 鈴木道彦さんは、プルーストの「失われた時を求めて」の翻訳についてこのように書かれていますので引用してみます。
「訳者にとって重要なのは、ごく限られた部分のみを走り読みして適当な論評を加える職業的な批評家ではなくて、数は少なくとも、ただ自分の生活と読書体験だけを武器に、腰をすえてこの大作をじっくりと読んでみようとするいわば素人の読者たちである。」
               ユリイカ 総特集プルースト 青土社 131p



 鈴木道彦さんのこのお言葉は、まさにわたしのことだと思い、この部分を読んだときにはうれしくなりました・・。
 
 いまは、この「新訳でプルーストを読む」という立教大学の公開セミナーに参加して、吉川一義さんの翻訳で、わたしにとっては3度目のプルーストを、第9回「ソドムトゴモラⅡ」まで読んでいます。吉川一義さん訳の岩波文庫版は、同じページに注もあり、写真も豊富で、楽しくわかりやすく読めるようになっているのが、良いと思います。




 
 2019年1月現在吉川一義さん訳のこの岩波文庫版は、13まで出ており、最終巻は2019年夏以降刊行予定ということです。
 
 プルーストのいうように、本を読むというのは、自分を読むということなのだと、しみじみと実感し、彼の世界を楽しむ読書をしています。












 
 

2019年1月9日水曜日

冬晴れの日に・・




 今朝は、5センチぐらいの積雪でした。お昼前にいつもの公園に散歩に行きますと、こんなすてきな光景に出会いました。



ミヤコザサの影がすてきでした。

 いつものわたしの好きな場所は、こんな感じになっていました。




 冬が大好きなわたしですが、冬晴れのこんな日は、気持ちも晴れ晴れとしてきます。

 お正月に誰かが作ったユキダルマも、まだ、姿が残っていました。
 目がとれていたので、辺りを探してつけてあげました。




 ツチアケビの実は、そのままドライフラワーのようになっていました。




 わたしの足跡だけが残っている公園を歩くのは、贅沢な気分・・。
 冬晴れの日の楽しみです・・。
 






プルーストの飛行機・・




 冬晴れの日に散歩していると、真っ青な空に浮かぶ白い雲が、とてもメルヘンチックで素敵です。




 空を見上げていると、突然、飛行機が視界に入ってきました。




 あわてて、カメラを向けたのですが、とても早く飛んで行ってしまいこのように小さな機影になってしまいました。
 そういえば、「『失われた時を求めて』9「ソドムとゴモラⅡ」をいま、読んでいるのですが、飛行機を見たときのエピソードが出てきます。




 当時はまだ飛行機は珍しかったようで、主人公が飛行機の姿を見た時にはとても感動して涙まで流していたというのです。
  プルーストが飛行機が飛ぶのを見ただけで、涙を流すほど感動したということが、少し不思議に思えたので調べてみると、彼の恋人だったアルフレッド・アゴスチネリの飛行機事故死という悲劇があったようです。

 「プルーストと過ごす夏」という本の中で、ジャン=イヴ・タディエも、プルーストは、彼の恋人アゴスチネリの飛行機の事故死というのを念頭に置いて、この部分を書いていたのではと指摘していました。




 「『失われた時を求めて』9 ソドムとゴモラⅡ」 には、同性愛の話しが出てくるのですが、プルースト自身もそうであったと言われています。彼の恋人のアルフレッド・アゴスチネリの飛行機での事故死ということが、ジャン=イヴ・タディエの指摘のように、この飛行機の挿話となっていたのかもしれませんね。
 少し長いのですが引用してみます。



・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
突然、わたしの馬は後ろ足で立ちあがった。なにか異様な音を聞いたのである。私はなんとか馬を鎮めて振り落とされまいとしたが、やおらその音がしたと思われるほうへ涙でうるんだ目をあげると、私から五十メートルほど上方の陽光のなか、きらきら光る鋼鉄の大きなふたつの翼に挟まれて運ばれてゆくものが見え、その判然としないものは私には人間のすがたかと思われた。私は、はじめて半神と出会ったときのギリシャ人と同じように感動していた。私は涙まで流していた。その音が頭上から聞こえてくるからにはーー当時、飛行機はまだ珍しかったーー私がはじめて見ようとしているのは飛行機なのだと考えただけで、もう泣き出しそうになったからである。新聞を読んでいて感動的なことばが出てくるのを予感するときと同じで、涙がどっと溢れるには飛行機のすがたを見るのを待つだけでよかったのだ。その間も飛行士はどちらへ進むべきか迷っているように見えた。その飛行士の前方にはーー慣習が私を囚われの身としなかったらわたしの前方にもーー空間における、いや人生における、あらゆる道が開かれているように感じられた。飛行士はさらに遠くへ進み、しばらく海のうえを滑空したあと、いきなり意を決すると、なにやら重力とは反対の引力にでも従うかのように、まるで祖国へでも戻るといった風情で、金色(こんじき)の両の翼を軽やかに翻してまっすぐ空のほうへ突きすすんだ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 引用・「失われた時を求めて」9ソドムとゴモラⅡ 吉川一義訳 岩波文庫399p
                                   401p
   


この部分を、改めて読み直してみると、飛行機に特別な思い入れを寄せるプルーストの気持ちが、痛いほどにわたしにも感じとることが出来ました・・。

 冬の青空に、銀色の翼を輝かせながら飛んでいく飛行機は、わたしにとっては、夢を運んでいくようにも見えたのですが・・。

 
 






白鳥を見に・・



 きょうは、白鳥を見に栃木県大田原市の羽田沼(はんだぬま)野鳥公園に行ってきました。



  白鳥は、スワンといいますが、失われた時を求めてには、スワンの恋と題されたところが出てきます。
 スワンは、オデットという女性と恋をするのですが、その恋の顛末が描かれているのです。




 オデットという名前は、たしかバレエの「白鳥の湖」にも出てくる王女の名前だったと思うのですが、悪魔によって白鳥に姿を変えられているのでしたよね。
 泳いでいる白鳥を見ると、やはり、物語の主人公を思わせるような姿のようにも思えてきます。




 シベリアからはるばると越冬のために、この沼に来る白鳥は、それだけでもわたしには
驚異的な存在に見えました。
 



シベリアに旅立つ3月まで、この沼で無事に過ごして欲しいものです。それにしても白鳥は美しい鳥ですね。鳴き声もおだやかで、わたしには「コーコー」と聞こえました。



  きょうは、白鳥は5羽、見ることができました。