2015年10月29日木曜日

旅・紅葉の修学院離宮



  紅葉の修学院離宮を、訪ねてきました。修学院離宮は、紅葉が始まっていて、池のまわりの景色は息をのむほどすてきでした。




 修学院離宮は、後水尾上皇によって江戸初期に造られていますが、この時期の寛永という年号から、寛永文化ともいわれているようです。

 寛永文化の建築で対極なのが、豪華絢爛の日光東照宮と、それに対して、簡素な美しさの桂離宮とこの修学院離宮なのだそうです。

 桂離宮は、ブルーノ・タウトによってあまりにも有名になってしまいましたが、この修学院離宮も魅力的な建築と庭園でした。

 修学院離宮は、比叡山を望める広大な敷地に造られた、田や畑まである別荘です。




  客殿の飾り棚は、霞がたなびいているように見えるので霞棚というそうですが、公家風で優美ですね。




 鯉の絵が描いてある襖は、鯉が逃げないようにと後で丸山応挙が、網を描いたということですが、ユーモアが感じられました。




 ここは、創建当時の建物だそうですが、上段の畳の間に入る日差しが、やわらかですてきでした。




 修学院離宮は、後水尾上皇の理想の山荘として造られたのですが、歩いて1時間半もかかる広大な敷地を廻っていますと、なぜかおおらかでゆったりとした気分になりました。

 




2015年10月27日火曜日

旅・京都 石峰寺 若冲の五百羅漢・・・



 伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせたという五百羅漢を見に京都の石峰寺に行ってきました。




 石峰寺は、黄檗宗の禅道場ですが、黄檗宗の本山はあの萬福寺ということで、中国風の朱色のかわいらしい門が2つもありました。




  
 若冲は、このお寺に草庵を結び、十余年をかけて、下絵を描いて石工に彫らせた五百羅漢を制作し裏山に安置したということです。

 若冲のお墓と筆塚もありました。

 朱色の門は2つあり、2つ目のこの門から入った裏山に五百羅漢がありました。





 制作当時は、1000体以上もの石像があったそうですがここに現存するのは、もう五百数十体のみだそうです。

 石像は長年の風雨から、丸みをおびて風化され、表情がやわやかく感じられました。

 石峰寺での五百羅漢の写真撮影は、禁止されていましたので、東京に戻ってから、ここからのものと思われる椿山荘に安置されている五百羅漢を改めて見に行ってきました。

 椿山荘の五百羅漢も石峰寺と同じく風化されて、趣のある表情になっていました。





   若冲は、京都の錦小路の青物問屋の長男として生まれ、23歳で家督を継いだそうですが、錦小路の入り口のところに表示があるのを見たことがあります。




 30歳代のときに相国寺の大典禅師に出会って参禅し「若冲居士」の号を得たということですが、40歳で弟に家督をゆずり、その後は、画ひとすじに生きたようです。

 石峰寺の草庵に住むようになったのは、1788年の京都大火で住む家を失ってからということです。

 「斗米翁」と自ら名乗り、米一斗と、画一枚を交換する生活を送り、1800年9月10日に草庵で、85歳の生涯を閉じたということです。




 吉井勇さんは、こんな歌を残しています。

「われもまた落葉のうえに寝ころびて
            羅漢の群に入りぬべきかな」    吉井勇

 若冲の五百羅漢は、吉井さんのこの歌のように、惹きつけられるような不思議な魅力が感じられました・・。


  ☆「五百羅漢の石像の写真は、東京の椿山荘で写させていただきました。」


2015年10月26日月曜日

泣きたくなるほど美しい・・・桂離宮


 「泣きたくなるほど美しい印象だ・・・」

 ドイツの建築家のブルーノ・タウトさんは、桂離宮を訪ねたときの印象をこう語られています。念願だった桂離宮の予約がとれたのは、10月21日で秋の日差しがあたたかい午後でした。




 バス停から桂川に沿って桂離宮の門までの道は笹の生け垣になっていました。
 これは背後の竹林から竹を根のついたまま編みこんでいるそうで、びっくりでした。
 笹垣というそうです。






 桂離宮は、八条家初代の智仁(としひと)親王が別荘として造営を始めたということですが、1662年二代の智忠(としただ)親王のときに、ほぼ今日のような山荘の姿になったということです。

 御幸門(みゆきもん)は、茅葺の簡素な門ですが、後水尾上皇を桂山荘にお迎えしたときに智忠親王が造られたとされていますが、その後、失われ、再建されたということです。




 門を入って、御幸道(みゆきみち)を通り、外腰掛けを過ぎ石の橋を渡ると、突然、視界が開けて、サプライズのように見事な庭が見えました。

 下の写真を見ると、その時の印象がよみがえってきます。右下に見える灯篭は、岬灯篭と呼ばれ、あたり一体を引き締める「要」になっているそうです。



 「松琴亭」(しょうきんてい)という茶室の襖は青と白の市松模様、現代的で斬新なデザインであまりにも有名ですが、この模様をまねたというわたしの叔父の家の襖を思いだしてしまいました。




 「笑意軒」(しょういけん)からは、障子を開けると、田圃が見えるようになっていて、夏には心地よい風が入ってくるということです。



 
 この「笑意軒」の前の石畳の石の色があまりにも美しいので写してみたのですが、こんな色でした。




 最後に簡素でしかも優美な佇まいのあの古書院などが連なる書院群を見ました。
 写真で見慣れている風景でしたが、より簡素で美しかったです。

 この高床式のデザインの謎は、桂川の氾濫を予想してということです。




 智仁親王と、智忠親王は、35年の歳月をかけ、この洗練された桂離宮を造られたのですが、お二人のご趣味のよさは、やはりかなりの教養人だったのでしょう・・・。

 ブルーノ・タウトさんが、「泣きたくなるほど美しい印象だ・・・」と、おっしゃった意味が理解できたように思いました。



 
 

 













2015年10月11日日曜日

音楽・秋のプレリュード     (ブラームスの交響曲第三番)





 先日の朝、FMラジオを聴いていましたら、なつかしい旋律が流れてきました。 カラヤン指揮のウィーンフィルの演奏するブラームスの交響曲第3番の3です。



 
放送後、たまらなく懐かしくなり、早速、 手持ちのCDを出して聴いてみました。 サー・ソルティ指揮のシカゴ交響楽団のものです。

 改めて聴いてみると、ブラームスの曲は、秋の季節にぴったりのようにも思えてきました。





 FMラジオのDJは、この曲はヴィースバーデンで作曲されたと言っていたのですが、調べてみましたら、ブラームスの当時の夏の間の滞在地だったようです。





 そういえば、ブラームスは若いころの一時期、クララ・シューマンのいるバーデン・バーデンで夏を過ごしていたのですが、その家をむかし訪ねたことがありました。

 そこは、バーデン・バーデン郊外のリヒテンタールの高台にあり、いまは、ブラームス・ハウスとして、公開されていました。





 その家で、ブラームスの若いころの写真を見たのですが、金髪の美青年でした。あの見慣れた恰幅の良い晩年の姿とは、あまりにも違っているので、驚いたのを覚えています。






 ブラームスは、クララとバーデン・バーデンの散歩道をいっしょによく歩いていたということですが、わたしも二人を思いながら、散歩道を歩きました。





 ブラームスは、婚約した女性が出来たときにも、結婚の決断ができなかったようで、ふられてしまい、生涯独身で過ごしました。
 ブラームスのクララに対する想いや、彼の人生のそれぞれの場面での対処の仕方などは、彼の音楽にも影響を与えていると思います。




 
ブラームスの穏やかで静謐で深い音楽は、彼の人柄なのかもしれません。朝に聴いたブラームスの音楽は、久しぶりに彼のやさしさを聴いたように思いました。



2015年10月10日土曜日

那須で阿波踊り!!




 10月9日は、那須の温泉神社例大祭で、午後1時から奉納阿波踊りがありました。




 秋晴れのまぶしいほどの良い天気で、お祭り日和でした。「ぞめき」と呼ばれる太鼓や三味線、鉦の音がひびきわたると、こちらまで、わくわくしてきます。





いよいよ、踊りのスタートです。

 





  すばらしい笑顔ですね!!!
  こちらまで笑顔にさせていただきました。(^^♪
  


 

 凧の踊りをなさっているお二人です。表情がすばらしい!

 那須温泉神社の奉納阿波踊りを見せていただくのは、今年で2度目ですが、奉納阿波踊りは、もう6回目だそうです。

 パリでも阿波踊りのご披露をなさったということですが、この「天水連」からも、お二人が参加なさったとか。

 とても魅力のある踊りですので、パリのみなさんをも、きっと魅了なさったことでしょう。

2015年10月2日金曜日

那須風景・世の中は稲刈る頃か・・・




  世の中は稲かる頃か草の庵
                   芭蕉

 この芭蕉の句のような風景に、きょう出あったのですが、こんな風景でした。

 


 刈りとった稲が、天日に干してありました。そういえば、このように、稲を干せばお米はもっとおいしくなると農家の方にお聞きしたことがありました。




 しばらく運転していますと、コンバインで稲刈りをしていらっしゃる方を見かけたので
車を止めて、しばらく見とれていました。 




 田のまわりを、半時計まわりにコンバインで、ほれぼれするほどきれいに稲を刈り取っていらっしゃいました。




 田んぼの四隅は、手刈りをなさっていて、その稲をコンバインに直接入れて収穫なさっていました。




 収穫したお米は、コンバインから直接軽トラックに積み込むことができるのですが、なるほど便利ですよね。




 空になったコンバインは、また、残りのお米を収穫なさっていました。




 きょうは、初めてコンバインでのお米の刈り入れを見せていただいたのですが、農家の方の収穫のうれしさが感じられて、こちらまで豊かな気分にさせていただきました。

 芭蕉のようにしみじみと、世の中は稲を刈る季節になったのだなあと、思いました。

 田の畔には、オオマツヨイグサが咲いていました。