この季節には、キンポウゲが道の両側に咲いているすてきな散歩道があるのですが、もうそろそろ花も終わりのようです。花びらは、金色に光っていて英語の名前のバターカップという名前が頷けます。
建礼門院右京大夫集を読みました。この本のことは、ドナルド・キーンさんが書かれた「百代の過客」に出ていて知りました。
キーンさんによればこの本「建礼門院右京大夫集」は、和歌の家集ですが、和歌を詠んだときの詞書がついていて日記のようにも読めることから日記文学に入れたとのこと。
わたしが特に興味を持ったことが、二つあります。その一つは右京大夫がまだ少女時代だったころ、式子内親王に仕えていた中将の君と呼ばれていた女房との歌のやりとりが、書かれていたことです。
大好きな歌人の式子内親王に関することにも少しふれて書かれていたので、うれしくなったのですが、内親王はそのころ、大炊御門(おおいのみかど)に住んでおり、大炊御門の斎院と呼ばれていたとのこと・・。
その大炊御門の斎院に仕えていた中将の君が、咲いていた桜の花の枝に添えて、右京大夫に和歌を贈ってきたのです。
右京大夫はそのころはまだ少女でしたが、返礼の和歌を贈っていますので、すでに歌人として認められていたのかと、少し驚いたのでした。
もうひとつは、「星月夜のあわれ」というところです。
十二月のついたちの午前二時半頃、空を見上げると、晴れた藍色の空に大きな星が光って出ているのを見た右京大夫は、縹色(はなだいろ)の紙に、金色の箔をちらしたようだと感激しています。
そのころの右京大夫は、源平の戦に敗れた平家の武者として亡くなっていた最愛の恋人を想っていたからでしょうか、旅の空で見た星月夜の美しさを、ことさらに身に染みて感じたのかもしれません。
月夜ではなく、星月夜というところに、とても惹かれたのですが、わたしも同じような経験をしたことがありました。やはり冬の夜の夜半過ぎ、カーテンを開けて空を見上げると、藍色の冴えて澄んだ冬空に、きらきらと輝く星々を見たときの光景は忘れることができません。わたしもちょうどそのころ、愛犬をなくしていたということもあり、こころにより深くしみたのだと思います。
この本の全訳注をなさった糸賀きみ江さんは、「自らの人生を大切に考える人々の共感を呼び起こさずにはいないと思われる」と書かれているのですが、わたしもまったく同感でした。
平安末期の激動の時期に生きた右京大夫の人生の心のひとこまが印象に残った一冊になりました・・・。
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