リルケはこの本の中で、詩についてこのように書いています。詩は感情ではなく経験である。一行の詩のためには、人生のさまざまを経験することが必要であり、その思い出のかげからぽっかりと詩が生まれてくるのだと・・。
彼はこの本を書くのに7年もかかったということです。マルテという青年作家のパリでの生活の究極の内面を描いているのですが、マルテはリルケだったようです。
マルテのパリでの生活の孤独と貧しさは、彼の血の中にまで溶け込むのですが、最後にはその究極のどん底の生活の中にも、何かすばらしい祝福や肯定の愛があるのを暗示して物語は、終わっています。
プルーストは、「失われた時を求めて」の最後に、主人公が、自分のこの長い人生の経験を文学作品として書こうと決心したところで、物語は終わっています。リルケも詩人や作家として作品の一行を書くのには、このような経験が必要だったのだとこの小説の中でマルテの手記という形をとって書きたかったのかもしれません。
リルケは、この小説を書いた以後は、小説は書いていないというのも、わかるような気がします。このような究極の物語を書いてしまったのですから・・。
わたしがこの小説の中で、好きなところが47pにあります。
「店の中をふとのぞきこんでみると、誰か彼か人間がいて、知らん顔ですわったまま本を読んでいる。明日の心配もなければ、成功にあせる心もない。犬が機嫌よさそうにそばに寝ている。でなければ、猫が店の静かさをいっそう静かにしている。猫が書物棚にくっついて歩く。猫は尻尾の先で、本の背から著者の名まえを拭き消しているかもしれない。こういう生活もあるのだ。僕はあの店をそっくり買いたい。犬を一匹つれて、あんな店先で二十年ほど暮らしてみたい。ふと、そんな気がした。」
リルケは、生きることのしあわせを、このようなパリでの光景に見ていたのかもしれません。
リルケがマルテに託して書いた彼の芸術家としての魂の告白は、あまりにも悲痛ですが、このような場面があることは、生きることの肯定と希望が感じられました。
翻訳者の大山定一さんの「あとがき」の最初にこんな言葉が書いてありました。
「なぜなら、貧しさは内部から射すうつくしい光である」
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