今の季節には、散歩していると、ヤマユリの実のドライフラワーがあちこちで見られます。雪の野をバックに写すと、造詣がとてもすてきで、斬新なオブジェのようです・・。
ヘミングウェイの「移動祝祭日」を読みました。先日ある本を読んでいましたら、ジェイムズ・ジョイスのことが「移動祝祭日」に書いてあるというので、改めて読んでみたのでした。
この本は、ヘミングウェイの遺作ですが、最初の妻ハドリーと結婚し、いっしょにパリで過ごした若いころのなつかしい日々のことが、回想として書かれています。
1920年代のそのころのパリは、新しい芸術の波が来ていたようで、ヘミングウェイがパリにわたって1か月後ぐらいには、あのジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」が、シェイクスピア書店のシルヴィア・ビーチの手で刊行されていたと、高見浩さんの解説に書いてありました。
この本には、ジョイス一家がミショーというレストランでよく食事をとり、家族はイタリア語で語りあっていたということや、のちにはヘミングウェイが、偶然にジョイスと街で出会ったときには、ドウー・マゴでいっしょにお酒を飲むまでの友達になっていたとも書かれていました。
ジョイスについての記述はこれだけでしたが、ヘミングウェイは、ジェイムズ・ジョイスを、尊敬していたのが、感じられたのが収穫でした。
ところで、この本のタイトルにもなっている「移動祝祭日」についてですが、最初の見開きのページに、友への言葉としてこんな風に書かれています。
・-・-・-・-・
「もし幸運にも、若者のころ、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」
・-・-・-・-・ 引用 最初の見開きのページより
1921年、ヘミングウェイは22歳のときに、最初の妻ハドリーと結婚してパリに住み始めたのですが、この言葉のように、ヘミングウェイにとってパリは、その後の彼の人生に、いつもついてくる「移動祝祭日」だったのだと思います。
そして、彼が老いてから、パリの思い出を回想したときに、そこにはいつも最初の妻だった最愛のハドリーがいたのだと実感したのでした。
本の最後の言葉を読んだときに、彼のこの後の人生の最後の結末を思い、胸がきゅんとしてきたのは、わたしだけだったのでしょうか・・・。
こんな言葉で、終わっているのです。
・-・-・-・-・
・・・私たちはいつもパリに帰った。パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。が、ともかくもこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。
・-・-・-・-・ 引用 300p
上の文にも書かれているように、わたしたちというのは、ヘミングウェイと、最初の妻のハドリーのことで、この本は彼のハドリーに対するオマージュとして書かれたのだと、思ったのでした・・。
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