今年の冬は、数年に一度という寒波も来ましたし、いつもの冬よりも寒いような気がします。散歩していると、雪はまだ大分残っていて、真っ白の雪の上に「まつぼっくり」をおいてみると、冬に咲く花のように見えました。
ついにというか、長年の間、積読本だったユリシーズを、読み始めました。多分、本には「読み時」というのがあり、わたしにとっては、いまがそうなのかもしれません。
ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」は、プルーストの「失われた時を求めて」といっしょに20世紀文学の双璧と言われているほどなので、長い間読みたかった本でした。
プルーストの、「失われた時を求めて」は、(別の翻訳者で4回)、10年以上もかけて、すでに読み終えています。「失われた時を求めて」は、主人公が幼い時から芸術家になるという決意をするところまでの長い人生の物語であるのに対し、ジョイスの「ユリシーズ」は主人公のダブリンでのある特定の一日(1904年6月16日)の物語という違いがあります。
共通点としては、どちらも12巻や4巻という長い物語で、訳注が多いということがあげられるのかなと思います。
また、プルーストの本には、猫や犬などがほとんど出てきませんが、ジョイスの本には出てきます。多分猫を飼っていたのだと思いますが、猫の描写をとても巧みに愛情込めて書いています。
主人公のブルームの飼い猫の描写は、140p~141pまで猫好きの方にはたまらないと思われるような、猫の本質を語っているような上質な描写なのです。
ブルームの猫は、なめらかな皮膚の黒猫で、しなやかな体と、きらめくような緑いろの宝石のような目の持ち主のようです・・。猫にあげるミルクは、ここではダブリン市内にあるハンロン牛乳店の配達人が、牛乳を一杯にしていったばかりの大瓶から皿に注いであげるのでした。
このハンロン牛乳店とは当時のダブリンには、同じ名前の店が3軒ありたぶん、ここだろうと、訳注で店の特定までされているのですから、恐れ入ってしまいます。
プルーストの本にももちろん、研究者が調べた百科事典があるのですが、ジョイスのこの本にも、あるようです。
「ユリシーズ」のⅠは、午前8時、マーテロ塔に住む3人の朝から始まります。まだ主人公はあらわれていないのですが、その3人のなかのひとりは「芸術家の肖像」の主人公のスティーブンで、22歳、学校教師・詩人として出てきます。
ジョイスの書き方は、言葉の魔術師のように、言葉や文体までもさまざまに駆使して書いているのですが、その言葉の訳注も重要なポイントになっているのです。
ジョイスが目指したのは、新しい文学の形式だと思うのですが、わたしにとっては、当時のダブリンの日常生活の細部が、とても興味深くおもしろく感じました。
たとえば、午前8時すぎにスティーブンと、マリガンとヘインズは、朝食を食べるのですが、メニューは、バターと蜂蜜をつけたパン、焼いたベーコンと卵、濃くいれたTEA、そこに入れるミルクは、朝しぼりたてのものを老婆が売りにくる。というもので、ほとんど英国と同じようなメニューで、おいしそうだと感じました。
わたしがロンドンに住んでいたときには、毎朝、専用の電気自動車にミルクを積んだ「ミルクマン」が、牛乳瓶を玄関前においてくれたのを思い出したのですが、老婆が朝しぼりたてのミルクを売りに来るという場合、ジョイス語ではどういうのかしらと、あれこれ考えて笑ってしまいました。
(わたしの日本語訳では、「ミルクおばば」とか、ひねりをきかせて、老婆なのにわざと気取って「ミルクレディー」とか・・。)
ジョイスの毒舌は、紅茶を入れるポットを、おまるのポットといっしょにして、「おんなじポット」を使用とかなんとか言ったり・・するのです。
これなどは、もちろん、ほんの序の口なのですが・・。ジョイス語の多用の結果、当時の社会では発禁本になったというのも頷けます。
ブルームの妻は、オペラの歌手という設定ですが、ジョイス自身もコンクールに出たり歌が上手だったようですから、やはりアイルランド人は歌や音楽が好きという定説は、本当のようです。
本の最後に、池内紀さんが、「ジョイス語積木箱」というエッセイを書かれていますが、彼によれば、ジョイスは翻訳者に地獄の苦しみを与えているが、読者は、この本を積み木のように、自由にして言葉を遊んで楽しめばよいということです。
そして、本文の、「片柄つき間男」とは何か?を訳注が告げていると、のべられているのですが、ご専門のゲーテの「イタリア紀行」を持ち出して、そこに出てくる人物を特定され、おもしろい解説をなさっています。
多分、ジョイスは、最上の知的なしゃれで、言葉を駆使して、わたしたち読者をけむりにまいて、どこかで笑っているような気がしたのでした・・・。
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