2025年2月16日日曜日

読書・「幻想の肖像」澁澤龍彦著・河出文庫と、「三島由紀夫の美学講座」谷川渥篇・ちくま文庫の接点

 


 散歩していると、まだまだ雪が残っていて、木の切り株に積もった雪は、こんな感じで、まるでアイスクリームか、ふわふわのメレンゲのようです。




 最近の読書は、2,3冊の本を同時進行で読むことが多くなりました。先日も澁澤龍彦さんが書かれた「幻想の肖像」と、三島由紀夫さんの「三島由紀夫の美学講座」を、交互に読んでいましたら、澁澤龍彦さんが、三島さんの文を引用なさっているのに気づきました。

 それは、澁澤さんの「幻想の肖像」のなかの、ヤコボ・ツッキの「珊瑚採り」の絵の紹介のところなのですが、三島由紀夫さんのこんな文を引用なさっていたのでした。

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「なかでもツッキの『海の宝』は、ギュスタアヴ・モロオの筆触を思わせるものがあり、前景では多くの裸婦が真珠や珊瑚を捧げ持ち、その背後には明るい海がえがかれて、無数の男女の遊泳者が、さまざまのきらびやかな宝を海から漁(あさ)っているところである。」(『アポロの杯』より)

    引用・「幻想の肖像」120p (三島由紀夫の文からの引用)

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 三島由紀夫さんは、昭和27年5月のローマ滞在中にこの絵があるボルゲーゼ美術館でこの絵を観ていらしたとのこと・・。
  

 澁澤龍彦さんは、当時の美術批評界には、ヤコボ・ツッキという十六世紀のイタリアの画家について、言及している人はなく、三島由紀夫さんがこの画家について発言した最初の日本人だったのかもしれないと、書かれています。

 私は、三島由紀夫さんの評論が好きですが、彼は画にも造詣が深く、ご自分の審美眼で観ていらしたのだと今更ながら、思ったのでした。




 「三島由紀夫の美学講座」ちくま文庫は、ほとんど同じ文ですが、ツッキはZucchiとなっています。

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「なかでもZucchiの「海の宝」(十六世紀)は、ギュスタアヴ・モロオの筆触を思わせるものがあり、前景では多くの裸婦が真珠や珊瑚(さんご)を捧げもち、その背後には明るい海がえがかれて、無数の男女の遊泳者が、さまざまのきらびやかな宝を海から漁(あさ)っているところである。」

引用 「三島由紀夫の美学講座」の165p

        「羅馬」より (三島由紀夫の文)

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 このように、三島由紀夫さんの同じ文を、2つの作品から偶然にも読んだことで、このヤコブ・ツッキという未知のイタリアの画家の絵は、わたしにとって忘れられないものになったのでした。

 そしてまた、わたしの紛失物が見つかるという不思議な出来事もあったのです。



 それは、一年以上も前に紛失していたわたしの真珠のピアスですが、本を読んだ翌朝にベットの枕のところで見つかったのです。

 ヤコブ・ツッキの絵には、真珠や珊瑚を捧げ持っている姿が描かれていたのですから、偶然とはいえ、真珠のピアスの発見は、とても不思議でうれしい出来事でした!







2025年2月14日金曜日

映画・「シェイクスピアの庭」ケネス・ブラナウ監督作品   すばらしいシェイクスピアのソネットの朗誦・・

 

 庭のエサ台にヒマワリの種を食べに来た「ヤマガラ」です。ヤマガラの色はよく見ると、黒と白、グレーに茶色というシックな色あいの装いで、おしゃれな野鳥です。きょうは他には、ゴジュウカラも来ました。


              ヤマガラ

 ケネス・ブラナウ監督の映画「シェイクスピアの庭」を、観ました。観るのはたしか、4度目ぐらいだと思うのですが、今回、特に映画の中でわたしがいちばんこころに残ったシーンがありました。

 それは、晩年にストラット・フォード・アポン・エイボンの自宅にもどったシェイクスピアを、久しぶりに友人のサウザンプトン伯が訪ねてきて、ソネットをふたりで朗誦する場面でした。

 暖炉の火と、ろうそくの灯りだけがふたりの顔を照らす静かな部屋で、サウザンプトン伯役のイアン・マッケランがシェイクスピアのすばらしいソネットの朗唱をしたのです!

 彼のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで鍛えたと思われるなめらかなベルベットのような英語の発音に、わたしの脳はすっかりとろけるように、打ちのめされてしまったのでした。

 早速、シェイクスピアのソネット集を、開いて読んでみたのですが、この映画に出てくるサウザンプトン伯は、この詩のモデルのひとりと思われるとのこと。

 ソネットは、シェイクスピアのうつくしい若者に対するひたむきな愛と賛辞につきていて、驚くのですが、いまはすっかり老齢になったサウザンプトン伯の若いころがしのばれました。シェイクスピアは、ソネットを詠うことにより美しい若者への究極の愛を、言葉で永遠に残そうとしたのだと思います。


            ゴジュウカラ

 この映画は、シェイクスピアが、1613年にロンドンのグローブ座が焼け落ちた後、筆をおり、20年間も留守にしていた故郷のストラッドフォード・アポン・エイボンの家族のもとに帰り、そこでおくった余生の話ですが、家族に起こっていた悲劇と和解の話にもなっていました。

 シェイクスピアの作品の中には、多くの植物が出てくるのですが、その植物と同じものが、いまでも保存されているシェイクスピアの家の庭や、妻のアンの実家の庭にも、植えられているとのこと。

 そういえば、むかし、夏のころにアンの実家を訪ねたときに、庭にはあふれんばかりの多数の花が咲いていたのを、思い出します。

 映画の中でも、シェイクスピアが庭作りに励む姿が出てきました。

 監督のケネス・ブラナウも、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの出身のようですが、主役のシェイクスピアも演じており、彼のこの映画にかける意気込みも強く感じられました。

 セリフには、シェイクスピアの作品からのものも多数ありますし、ソネットや詩の引用、そして凝った画面構成や、音楽、個性的な俳優など、わたしのベスト10に入る映画でした。

    


   


 

2025年2月12日水曜日

読書・「ユリシーズ 1」 ジェイムズ・ジョイス著 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳 集英社文庫      ♪ブルームの猫     

 


  今年の冬は、数年に一度という寒波も来ましたし、いつもの冬よりも寒いような気がします。散歩していると、雪はまだ大分残っていて、真っ白の雪の上に「まつぼっくり」をおいてみると、冬に咲く花のように見えました。




 ついにというか、長年の間、積読本だったユリシーズを、読み始めました。多分、本には「読み時」というのがあり、わたしにとっては、いまがそうなのかもしれません。

 ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」は、プルーストの「失われた時を求めて」といっしょに20世紀文学の双璧と言われているほどなので、長い間読みたかった本でした。

 プルーストの、「失われた時を求めて」は、(別の翻訳者で4回)、10年以上もかけて、すでに読み終えています。「失われた時を求めて」は、主人公が幼い時から芸術家になるという決意をするところまでの長い人生の物語であるのに対し、ジョイスの「ユリシーズ」は主人公のダブリンでのある特定の一日(1904年6月16日)の物語という違いがあります。

 共通点としては、どちらも12巻や4巻という長い物語で、訳注が多いということがあげられるのかなと思います。



 また、プルーストの本には、猫や犬などがほとんど出てきませんが、ジョイスの本には出てきます。多分猫を飼っていたのだと思いますが、猫の描写をとても巧みに愛情込めて書いています。

 主人公のブルームの飼い猫の描写は、140p~141pまで猫好きの方にはたまらないと思われるような、猫の本質を語っているような上質な描写なのです。

 ブルームの猫は、なめらかな皮膚の黒猫で、しなやかな体と、きらめくような緑いろの宝石のような目の持ち主のようです・・。猫にあげるミルクは、ここではダブリン市内にあるハンロン牛乳店の配達人が、牛乳を一杯にしていったばかりの大瓶から皿に注いであげるのでした。

 このハンロン牛乳店とは当時のダブリンには、同じ名前の店が3軒ありたぶん、ここだろうと、訳注で店の特定までされているのですから、恐れ入ってしまいます。

 プルーストの本にももちろん、研究者が調べた百科事典があるのですが、ジョイスのこの本にも、あるようです。




 「ユリシーズ」のⅠは、午前8時、マーテロ塔に住む3人の朝から始まります。まだ主人公はあらわれていないのですが、その3人のなかのひとりは「芸術家の肖像」の主人公のスティーブンで、22歳、学校教師・詩人として出てきます。

 ジョイスの書き方は、言葉の魔術師のように、言葉や文体までもさまざまに駆使して書いているのですが、その言葉の訳注も重要なポイントになっているのです。

 ジョイスが目指したのは、新しい文学の形式だと思うのですが、わたしにとっては、当時のダブリンの日常生活の細部が、とても興味深くおもしろく感じました。

 たとえば、午前8時すぎにスティーブンと、マリガンとヘインズは、朝食を食べるのですが、メニューは、バターと蜂蜜をつけたパン、焼いたベーコンと卵、濃くいれたTEA、そこに入れるミルクは、朝しぼりたてのものを老婆が売りにくる。というもので、ほとんど英国と同じようなメニューで、おいしそうだと感じました。

 わたしがロンドンに住んでいたときには、毎朝、専用の電気自動車にミルクを積んだ「ミルクマン」が、牛乳瓶を玄関前においてくれたのを思い出したのですが、老婆が朝しぼりたてのミルクを売りに来るという場合、ジョイス語ではどういうのかしらと、あれこれ考えて笑ってしまいました。

 (わたしの日本語訳では、「ミルクおばば」とか、ひねりをきかせて、老婆なのにわざと気取って「ミルクレディー」とか・・。)

 ジョイスの毒舌は、紅茶を入れるポットを、おまるのポットといっしょにして、「おんなじポット」を使用とかなんとか言ったり・・するのです。

 これなどは、もちろん、ほんの序の口なのですが・・。ジョイス語の多用の結果、当時の社会では発禁本になったというのも頷けます。




 ブルームの妻は、オペラの歌手という設定ですが、ジョイス自身もコンクールに出たり歌が上手だったようですから、やはりアイルランド人は歌や音楽が好きという定説は、本当のようです。

 本の最後に、池内紀さんが、「ジョイス語積木箱」というエッセイを書かれていますが、彼によれば、ジョイスは翻訳者に地獄の苦しみを与えているが、読者は、この本を積み木のように、自由にして言葉を遊んで楽しめばよいということです。

 そして、本文の、「片柄つき間男」とは何か?を訳注が告げていると、のべられているのですが、ご専門のゲーテの「イタリア紀行」を持ち出して、そこに出てくる人物を特定され、おもしろい解説をなさっています。

 多分、ジョイスは、最上の知的なしゃれで、言葉を駆使して、わたしたち読者をけむりにまいて、どこかで笑っているような気がしたのでした・・・。