散歩道に、毎年この季節に咲く、ユウガギクの群落地があります。ユウガギクの名前の由来は、葉をもんで、匂いをかぐと、柚(ゆず)の香りがするので「柚香菊」という名前がついたと、「野草の名前」という山渓名前図鑑に出ていたのですが、葉をもんでみると、ゆずの香りはせず、ちょっぴり残念でした。
丸谷才一さんの書評の本「快楽としての読書」の日本篇に続き、海外篇を読んでみました。
最初にカズオ・イシグロの「日の名残り」の書評が出てくるのですが、じつは先日知人宅で、この書評が書かれているハヤカワepi文庫版を見つけて読んだばかりでしたので、うれしい偶然にびっくりでした。(手持ちの中公文庫の「日の名残り」には、丸谷さんの書評は出ていませんでしたので。)
丸谷さんは、イギリス小説史の専門家たちが使う「英国の状態」小説という術語があるが、19世紀がディケンズだとすれば、20世紀ではE・M・フォースター、そして、イシグロの「日の名残り」は、まさしく「英国の状態」小説で、フォースターの「ハワーズ・エンド」が連想されると、書かれています。
「日の名残り」も、「ハワーズ・エンド」も、映画化されており、わたしは映画も好きで、どちらも観ているのですが、丸谷さんのいわれるようにまさしく、「英国の状態」小説の映画化で、興味深く観ることができました。
また、個人的に興味があるプルーストの「失われた時を求めて」の書評も、興味深く読みました。ところが、丸谷さんのこの書評が書かれていた当時は1985年で、ちくま文庫の井上究一郎訳の個人全訳が、まだ、第二巻までだったとのことで、時間の流れを感じたのでした。
その後、「失われた時を求めて」の個人全訳は、鈴木道彦さん、吉田一義さん、そしてまだ6巻までですが、高遠弘美さんと、4人の異なる翻訳で読めるのは、しあわせなことだと感じます。
丸谷さんによれば、1930年代のはじめのころに、日本人は諸国民にさきがけて、プルーストを好むと、アメリカの批評家、エドモンド・ウィルソンが指摘していたということですが、やはりわたしのようなプルースト好きが、日本では多いようです。
「源氏物語」と、「失われた時を求めて」の関連については、源氏物語のような大古典を小説史に持つ日本人が、やがて、「失われた時を求めて」のような小説を愛読するようになるというのは、運命的な事実かもとも・・。
そして、「源氏物語」と「失われた時を求めて」の共通点として、
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「花やかで充実してゐる人生においてじつにすばやく流れる時間の感覚と、それによってもたらされる人生のはかなさ」
・-・-・-・-・ 引用333p
と、いわれているのは、この書評のタイトルにもなっている「人間的時間」にもなっていて、彼の文学の理解の深さかなと、感じたのでした。
本の後ろで鹿島茂さんが、こんなユーモアのある解説をなさっていました。「この本を読むだけで、世界文学の通になれる「お得」な文庫である」と・・。苦笑してしまったのですが、わたしも同感でした!