2024年10月29日火曜日

読書・「子規の宇宙」長谷川櫂著・角川選書

 

  散歩道のあちこちで、ガマズミの真っ赤な実を見かけるようになりました。この実が色付くと、もうすっかり秋になったといつも感じます。



 俳人の長谷川櫂さんが、書かれた「子規の宇宙」を、読みました。この本は、丸谷才一さんの「別れの挨拶」という本の中の書評に、「よみごたへがあって、じつにいい気持ち」と、書かれていたので、読んでみたのでした。

 正岡子規に関する本は、ドナルド・キーンさんの「正岡子規」をはじめ、数冊読んでいるのですが、この本は、俳人としての長谷川櫂さんらしいユニークな視点で子規をとらえて書かれていると思いました。 




 特に、子規が24歳のころから、十二万句という膨大な数の「俳句分類」をはじめたことにふれ、そのことが子規の俳句を見る目を養い、俳句革新へと進んでいったという著者のお考えには納得でした。伝統を学ぶことから、革新が生まれるのですよね。

 巻末に子規の俳句を、286句、長谷川櫂さんが選んで載せてくださっているのも、丸谷才一さんが言われていたように、読みごたえがありました。




 その中で、わたしが特に好きな子規の句は、

                 「六月を奇麗な風の吹くことよ」  正岡子規

                「いくたびも雪の深さを尋ねけり」  正岡子規

 そして、自虐的なユーモアさえ感じられる

                「人問ハヾマダ生キテ居ル秋の風」  正岡子規

絶筆の

                「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」   正岡子規

などでした・・・・。


 子規は、29歳のときにカリエス(結核)になり、35歳で亡くなっているのですが、身動きのできないような寝たきりの身でありながら、「人問ハヾマダ生キテ居ル秋の風」や、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」 のように自分を客観的にユーモアもまじえて詠うことのできた子規は、やはり魅力的な芸術家だったのだと、改めて感じたのでした・・。 

 





2024年10月17日木曜日

アサギマダラのうれしい飛来・・・

 


 ここ数日、あたたかい午後の日だまりの公園で、アサギマダラがひらひらと舞っているのを見かけるようになりました。



 公園には、ヒヨドリバナがたくさん咲いているところがあるので、この花の蜜を吸いに来ているようです。アサギマダラのオスは、メスを惹きつける性ホルモン分泌のため、ヒヨドリバナの仲間に含まれているPA(ピロリジジンアルカイド)が必要なので、この花の蜜を好むのだとか・・。



 10月16日の朝のNHKラジオのニュースによれば、広島県のある町では、アサギマダラに来てもらうため、休耕田に好物の花であるフジバカマを植えているとのことでした。そこでは、今年のアサギマダラの飛来は、昨年よりも1週間遅い9月24日頃から確認され、10月の20日頃までいるのではという予報でした。

 このようなニュースを聞くとアサギマダラは、日本全国で愛されていて、旅をする蝶なのだというのが、よくわかります。



 アサギマダラは、体長が10cmぐらいと大きいのですが、それにしても、浅黄色(うすい水色)と、茶色と、黒のコントラストが見事で、うっとりと見とれてしまうようなすてきな蝶だと思います。

 そういえば、アサギマダラの数え方は、動物学上では「頭」が正しいとのことですが、昆虫の一種として数える場合には、「匹」でもOKということ・・。



 春に南からはるばると、涼しい場所を求めて移動してきたのですが、いまはもう秋、そろそろ南のあたたかいところに旅する季節になってきたようです。

 ここでしばらくの間、ゆっくりとヒヨドリバナの蜜を吸って、これからの南下する長い旅に備えているのでしょうね。

 また来年もこの場所で、アサギマダラが優雅に舞う姿を見ることができますようにと、願っています・・。


 ※2024年、アサギマダラの姿は、10月27日まで確認できました。


2024年10月8日火曜日

読書・「別れの挨拶」丸谷才一著・集英社文庫

 

  猛暑の夏もようやく過ぎ、10月に入りようやく秋めいてきました。いつもの散歩コースではない、新しいコースを歩いていますと、息をのむようなうつくしい葉っぱの紅葉に出会いました。

  よく見ると夏の思い出を残したような黄緑色を少しだけ残して、むらさきがかったピンク色がすてきでした・・。



 丸谷才一さんの最後のエッセイ集「最後の挨拶」を、読みました。

 解説で川本三郎さんは、丸谷さんがお好きだったものは、和歌や源氏物語に代表されるような雅(みや)びの世界の王朝文化、クラシック音楽、そして、若き日に学んだイギリス文学だったと、書かれていたのですが、改めてわたしも納得でした。

 


 Ⅱの「王朝和歌を読む」では、古代和歌の呪術性など、特異な視点からの発想で和歌論を述べられていて、彼の和歌に対する造詣の深さと愛を、感じたのでした。

 丸谷さんはたしか、王朝の和歌の中では、後鳥羽院と定家が、いちばんお好きだと、「文学ときどき酒」という対談集の中でいわれていたのを思い出します。そういえば、彼の「後鳥羽院」という本の中でも、後鳥羽院と定家を、くわしく関連づけて、分析なさっていましたし・・。

 



 吉田秀和さんについて、丸谷さんは、彼の評論はとにかく文章がうまく、近代日本の評論家中、随一であり、戦後の日本の音楽は、吉田秀和の作品であるとまで、いわれているのですが、吉田秀和ファンのわたしとしても、うれしくなるお言葉でした。丸谷さんのご趣味は、吉田秀和の本を読むことだったとか・・。

 吉田秀和さんが、音楽評論だとすれば、丸谷才一さんは、本の評論や書評を通じて、お二人ともに、日本の文化の向上に役立たれた方々だったと、改めて思った読書でした。



     

2024年9月30日月曜日

食・「いつもの朝ごはん」  ローマ人と同じ、たまごとりんご・・。

 

 今朝も食べた、いつもの朝ごはんです。



 ★ブロッコリーと、半熟のゆで卵(ブロッコリーには、しょうゆを少しかけ、ゆでたまごは、雪塩か、しょうゆどちらかを、かける。)

 ★有機ライ麦パン(メステマッハー)オーガニックフォルコンブロート    (エクストラヴァージンオリーブオイルをかける。)

 ★りんごとバナナ入り豆乳ヨーグルト(純ココアパウダー・有機すりごま・きな粉・シナモンをふりかけて・・)

 ★豆乳入り紅茶(紅茶は、ティーポットでいれて2杯)           





 トマトジュースや、トマトをプラスすることもあります。

 朝ごはんは、一日の元気の源ですので、体に良いものをと、こころがけているのですが、ここ数年は、これが定番になりました。

 豆乳ヨーグルトに入れるりんごとバナナは、一年中手に入りますので、おいしくいただいています。

 今年も大好きなりんごの季節になりました!

 そういえば、むかし、ローマでは、「卵からりんごまで」というのは、前菜にたまご料理、そしてデザートには、りんごが欠かせなかったので、「卵からりんごまで」というのは、「初めから終わりまで」という意味になったのだとか・・。

 わたしの朝ごはんも、卵とりんごを、いつも欠かさず食べているので、ローマ人と同じものを食べているのだ!と、思ってしまいました・・。

 そういえば、りんごと、たまごは、どちらも大好きです!!!






読書・「快楽としての読書」[海外篇]丸谷才一著・・・  「お得」な文庫です。


 散歩道に、毎年この季節に咲く、ユウガギクの群落地があります。ユウガギクの名前の由来は、葉をもんで、匂いをかぐと、柚(ゆず)の香りがするので「柚香菊」という名前がついたと、「野草の名前」という山渓名前図鑑に出ていたのですが、葉をもんでみると、ゆずの香りはせず、ちょっぴり残念でした。



 丸谷才一さんの書評の本「快楽としての読書」の日本篇に続き、海外篇を読んでみました。

 最初にカズオ・イシグロの「日の名残り」の書評が出てくるのですが、じつは先日知人宅で、この書評が書かれているハヤカワepi文庫版を見つけて読んだばかりでしたので、うれしい偶然にびっくりでした。(手持ちの中公文庫の「日の名残り」には、丸谷さんの書評は出ていませんでしたので。)

 丸谷さんは、イギリス小説史の専門家たちが使う「英国の状態」小説という術語があるが、19世紀がディケンズだとすれば、20世紀ではE・M・フォースター、そして、イシグロの「日の名残り」は、まさしく「英国の状態」小説で、フォースターの「ハワーズ・エンド」が連想されると、書かれています。

 「日の名残り」も、「ハワーズ・エンド」も、映画化されており、わたしは映画も好きで、どちらも観ているのですが、丸谷さんのいわれるようにまさしく、「英国の状態」小説の映画化で、興味深く観ることができました。

  


 
 また、個人的に興味があるプルーストの「失われた時を求めて」の書評も、興味深く読みました。ところが、丸谷さんのこの書評が書かれていた当時は1985年で、ちくま文庫の井上究一郎訳の個人全訳が、まだ、第二巻までだったとのことで、時間の流れを感じたのでした。

 その後、「失われた時を求めて」の個人全訳は、鈴木道彦さん、吉田一義さん、そしてまだ6巻までですが、高遠弘美さんと、4人の異なる翻訳で読めるのは、しあわせなことだと感じます。

 丸谷さんによれば、1930年代のはじめのころに、日本人は諸国民にさきがけて、プルーストを好むと、アメリカの批評家、エドモンド・ウィルソンが指摘していたということですが、やはりわたしのようなプルースト好きが、日本では多いようです。

    

 
 「源氏物語」と、「失われた時を求めて」の関連については、源氏物語のような大古典を小説史に持つ日本人が、やがて、「失われた時を求めて」のような小説を愛読するようになるというのは、運命的な事実かもとも・・。

 そして、「源氏物語」と「失われた時を求めて」の共通点として、
・-・-・-・-・
「花やかで充実してゐる人生においてじつにすばやく流れる時間の感覚と、それによってもたらされる人生のはかなさ」
・-・-・-・-・   引用333p

と、いわれているのは、この書評のタイトルにもなっている「人間的時間」にもなっていて、彼の文学の理解の深さかなと、感じたのでした。



 
 本の後ろで鹿島茂さんが、こんなユーモアのある解説をなさっていました。「この本を読むだけで、世界文学の通になれる「お得」な文庫である」と・・。苦笑してしまったのですが、わたしも同感でした!




2024年9月21日土曜日

読書・「快楽としての読書」[日本篇]丸谷才一著・ちくま文庫

 

 ノハラアザミが、咲き始めました。この辺りでは、春に咲くのがノアザミで、秋に普通に咲くのが、ノハラアザミですが、この花の生育地は、本州の中部地方以北とのこと。ノハラアザミの蜜は、ミツバチが大好きのようで、いつも花の蜜を吸っている姿を見かけます

  


 丸谷才一さんの書評の本「快楽としての読書」[日本篇]を、読みました。2012年第一刷発行と書かれていますが、新本はすでになく古本で購入・・。書評を読むのは、わたしのような本好きにはうれしいことで、この本には、丸谷さんの書評が122選も入っており、楽しい読書でした。

   書評された本の中で、わたしがすでに読んでいるのは、1「わたしの万葉集」全5冊 大岡信著、2「100万回生きた猫」佐野洋子著、3「ミラノ・霧の風景」須賀敦子著、4「椒庭秘抄 待賢門瞕子の生涯」、5「ソロモンの歌」吉田秀和著など、数冊でした。

 わたしの好きな作家である須賀敦子さんや、吉田秀和さんの本が入っていたのは、特にうれしかったのですが、須賀敦子さんの「ミラノ 霧の風景」の丸谷さんの書評は、こんな風でしたので、引用してみます。

・-・-・-・-・
    息の長い、しっとりとした、趣味のよい文章で、彼女はミラノの霧の匂ひを、ガッティの優しさを、夜のヴェネツィアの運河の水音とつながれてゐる小舟の舳先(へさき)が波の上下につれて岸辺の石にこすれる音を書く。そしてもちろん亡夫とのしはわせな日々のこと。・・・・わたしはこの本によって、生きることの喜びと哀れさを存分に味はふ思ひがした。
・-・-・-・-・  
               引用 183p~184p

 須賀さんのファンとしては、さすが丸谷さん、須賀さんの本のエッセンスを、ぎゅっとつかんでまとめていらっしゃると思ったのでした・・。





 丸谷さんは、第二次大戦後、イギリスから雑誌が入ってくるようになったとき、日本と比べイギリスの書評欄が充実していることに感嘆なさったとか。

 そして、1951年(昭和26年)2月「週刊朝日」が「週刊図書館」という書評のページをはじめたのが、日本の書評のはじまりになったとも書かれています。
 また、丸谷さんは、この「週刊図書館」の書評欄の執筆者のお一人として、誇りに思っていらっしゃるとも・・。



 
 解説で湯川豊さんは、丸谷才一さんの書評のことを、「書評の藝の見本帖」と、書かれていますが、その通りだとわたしも思いました。

 丸谷さんは、日本の書評文化に貢献なさった方なのだと、改めて深く認識した読書でした。

 和田誠さんの招き猫が2匹のカヴァーデザインも、好感を持ちました。

  

  






 


2024年9月6日金曜日

読書・「梨のつぶて」丸谷才一文芸評論集・丸谷才一著・晶文社  その2・「舟のかよひ路」源氏物語について

 

 8月の後半から、我が家の庭に「レンゲショウマ」が、咲きはじめました。「レンゲショウマ」は、わたしがいちばん好きな花と言ったのを覚えていらした知人から、数年前にいただいたものです。

「レンゲショウマ」は、日本特産の一属一種の気品ある花で、この花を見ると、わたしはいつも源氏物語に出てくる「紫の上」を、思い出してしまいます。昨年は咲かなかったので、今年はためいきをつきながら、見惚れています・・。



  
 丸谷才一さんの文芸評論集の「梨のつぶて」は、前回は「『嵐が丘』とその付近」の章についてブログにアップしたのですが、今回は、源氏物語が論じられている「舟のかよひ路」を選んでみました。

 丸谷さんは、源氏物語の現代性ということに、注目なさっているのですが、おもしろい視点だと感じました。

 源氏物語の現代性として、最初に、源氏物語の中の挿話が、「砂時計の形(シンメトリー)をした小説である」ということに気がつかれ感動なさったとか。

 砂時計の形の挿話については、
 「光源氏が父の妻(藤壺)と関係し、息子が生まれて天皇になる」
 そして、
 「光源氏の妻の女三宮が柏木と関係して息子が生まれ、光源氏は実子として育てることになる」
 という2つの話が砂時計のように、シンメトリーになっているというのです。

 この砂時計のような形になっているという考えは、E・M・フォースターが、アナトール・フランスの「舞姫タイス」を砂時計の形をした小説といっているのをふまえて、丸谷さんは源氏物語のこの挿話も同じだと考えられたとのこと。

 


 次に、源氏物語の現代性はそれだけではなく、「夢の使用の巧みさ」もあるとして、柏木の夢を紹介なさっています。

 「柏木は女三宮と関係したすぐあとに、猫の夢を見るのですが、女三宮が飼っていた猫が御簾のすそをあげたために、柏木が彼女の姿を見てしまい、恋するようになったのでしたが、猫は当時、夢占いで妊娠を意味していたとか・・。」

 また、夢だけではなく源氏物語は、「イメージの使用が優れた手法にもなっている」として、プルーストの「失われた時を求めて」の中の「囚われの女」のアルベルチーヌの眠りについてもふれられています。「鮮やかで精細な比喩」だとして。 

 さらに、源氏物語では、登場人物の自作の和歌によって本文をいっそう鮮やかにイメージしたり、古歌の引用によって、イメージを華麗にしたりしているが、もしプルーストが読んでいたら、羨望だったのかもとも・・。



 最後に、わたしがこの丸谷さんの評論で特に心に残ったのは、この3つでした。

それは、

   1・源氏物語の現代性を、独自の視点から論じられていること。

 2・日本では、中世の歌人たちや連歌師が、絵画的で音楽的な詩の方法を「源氏物語」のイメージの匂やかな扱い方により学んだこと。

 3・そして、フランス象徴詩の文学風土からプルーストやジェイムズ・ジョイスのあたらしい小説が生まれたということ・・。

 丸谷さんのこの源氏物語の文芸評論は、ご専門の英語圏の文学のほかにも、フランスの文学圏の文学風土や、我が国の中世の和歌や連歌など、自在に時間や空間を越えて論じられているのがユニークで、興味深くおもしろく読むことができました。

 最後に「梨のつぶて」という本の命名も、丸谷さんらしい言葉遊びで、さすがにジョイス仕込みだと思ったのでした・・。