伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせたという五百羅漢を見に京都の石峰寺に行ってきました。
若冲は、このお寺に草庵を結び、十余年をかけて、下絵を描いて石工に彫らせた五百羅漢を制作し裏山に安置したということです。
若冲のお墓と筆塚もありました。
朱色の門は2つあり、2つ目のこの門から入った裏山に五百羅漢がありました。
制作当時は、1000体以上もの石像があったそうですがここに現存するのは、もう五百数十体のみだそうです。
石像は長年の風雨から、丸みをおびて風化され、表情がやわやかく感じられました。
石峰寺での五百羅漢の写真撮影は、禁止されていましたので、東京に戻ってから、ここからのものと思われる椿山荘に安置されている五百羅漢を改めて見に行ってきました。
椿山荘の五百羅漢も石峰寺と同じく風化されて、趣のある表情になっていました。
若冲のお墓と筆塚もありました。
朱色の門は2つあり、2つ目のこの門から入った裏山に五百羅漢がありました。
制作当時は、1000体以上もの石像があったそうですがここに現存するのは、もう五百数十体のみだそうです。
石像は長年の風雨から、丸みをおびて風化され、表情がやわやかく感じられました。
石峰寺での五百羅漢の写真撮影は、禁止されていましたので、東京に戻ってから、ここからのものと思われる椿山荘に安置されている五百羅漢を改めて見に行ってきました。
椿山荘の五百羅漢も石峰寺と同じく風化されて、趣のある表情になっていました。
30歳代のときに相国寺の大典禅師に出会って参禅し「若冲居士」の号を得たということですが、40歳で弟に家督をゆずり、その後は、画ひとすじに生きたようです。
石峰寺の草庵に住むようになったのは、1788年の京都大火で住む家を失ってからということです。
「斗米翁」と自ら名乗り、米一斗と、画一枚を交換する生活を送り、1800年9月10日に草庵で、85歳の生涯を閉じたということです。
吉井勇さんは、こんな歌を残しています。
「われもまた落葉のうえに寝ころびて
羅漢の群に入りぬべきかな」 吉井勇
若冲の五百羅漢は、吉井さんのこの歌のように、惹きつけられるような不思議な魅力が感じられました・・。
「われもまた落葉のうえに寝ころびて
羅漢の群に入りぬべきかな」 吉井勇
若冲の五百羅漢は、吉井さんのこの歌のように、惹きつけられるような不思議な魅力が感じられました・・。
☆「五百羅漢の石像の写真は、東京の椿山荘で写させていただきました。」
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