3月に入り、2度も雪が積もりました。そんな中で、「フキノトウ」は、元気に春を告げています。このブログで雪の中のフキノトウの蕾の写真をアップしたのは、2月8日でしたが、それから、もう一か月近く過ぎ、きょうの散歩道の「フキノトウ」は、すっかり蕾が開き、花が咲き始めていました・・。
「すべての小説の中での一冊はプルースト」とおっしゃる評論家の篠田一士(はじめ)さんの著書、「二十世紀の十大小説」を読みました。
手持ちの本の再読ですが、調べてみましたら、1980年代に「新潮」に連載されていたものを、1988年に新潮社から単行本化され、さらに2000年に文庫化されたものが、この本とのこと・・。
ということは、わたしが20年以上も前に読んだ本で、内容はほとんど忘れていたのですが、「すべての小説の中での一冊はプルースト」と書かれていたのだけは、覚えていました。多分彼のプルースト論の部分を読みたくて、本屋さんで購入したのだと思います。
当時、篠田さんはプルーストを読むのに、井上究一郎さんの訳を未訳の二篇まで残して読み、残りは鈴木道彦訳で中央公論社版「世界の文学」から、そして「逃げ去る女」は、保刈瑞穂訳で講談社版「世界文学全集」からだったということでした。
1980年代のプルーストを読む環境は、現在の3人もの個人全訳で読むことができるという恵まれた環境とは、だいぶ違っていたようです。
篠田さんは、井上究一郎さんの訳を、絶賛なさっているのですが、わたしも井上さんの訳で初めてプルーストを読んだ当時をなつかしく思い出しました。
篠田さんの本文の中で、当時わたしが気に入っていた部分にマークがしてあったのですが、こんな文でした。
・-・-・-・
ママへのあこがれの思いは、ちょうどヴァーグナーの「指輪」(リング)の変ホの和音の響きが、いくつものライトモチーフをつくりだし、ついには、あの巨大な楽劇全体を構築してゆくのと同じように、この「失われた時を求めて」の、かずかずの愛と幻滅のドラマを導きだし、それらを一体化しながら、二十世紀現代の、まさしく、われわれの「神曲」ともいうべき、この言語の大伽藍の、最初の礎石定置に当るもので、その批評的意味合いは、きわめて重、かつ大である。
・-・-・-・ 引用75~76p
篠田さんの気合のこもったプルーストの「失われた時を求めて」論ですが、「二十世紀現代のわれわれの言語の大伽藍のライトモチーフ」が、「ママへのあこがれの思い」というのは、とても頷けました。(井上究一郎さんは、「失われた時を求めて」の中で、フランス語のママンを、ママと訳していらしたので、篠田さんもそのまま、ママになさっていたようです。)
また、プルーストを楽しんで読むだけの(わたしのような読者)にとっては、プルーストのユーモア感覚は十分味わっているので知っていることでもあると思うが、彼(篠田さん)のような評論家にとっては、批評の論題としては、説明するのがかなり至難の業なのであると、吐露なさっています。
そして、やはりこれは、訳文ではなくフランス語の原文で読むのがよく、日本語では伝えるのが難しいと、書かれていますが、わたしにもこの部分のさわりは、彼の趣旨がよくわかるような気がしました。母とフロラ叔母、セリーヌ叔母、祖父などの会話のところですが、篠田さんは、
「みな口調が少しずつ変化させられていて、それらがまた、いささか調子外れのプチット・サンフォニーを奏でているのが、何ともおかしいのである。」
と、書かれています。プチット・サンフォニーとは、おしゃれな言い方ですが、「小さな交響曲」とでもいうような意味でしょうか・・。
そういえば、たしか吉田秀和さんも、このようなユーモアにあふれたフランス語の会話を、楽しまれていたというのを、彼のエッセイで読んだことがあったのを思い出しました・・。
篠田さんは、文学はもちろん、詩歌や音楽など多方面の卓越な評論もなさっていたということですが、多面的な教養をお持ちの方だったことがよくわかる本でした・・。
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