深川には、芭蕉ゆかりの地が、いくつかあるのですが、まず最初に、奥の細道の旅に出発した場所を訪ねました。
奥の細道の旅の出発点 |
その場所は、仙台堀川にかかる海辺橋のほとりにある門人の杉山杉風の別荘の採茶庵(さいとあん)跡ですが、そこには、芭蕉の像がありました。
芭蕉は、さあ、これから奥の細道の旅に出発するぞという決意のみなぎる顔で、縁側に腰をおろしていました。
芭蕉はいままでに住んでいた芭蕉庵を引き払ってこの採茶庵に移っていたのですが、ここで、
☆「草の戸も住替る代ぞひなの家」芭蕉
という句を作っています。次に、小名木川にかかる萬年橋の近くにある芭蕉庵跡を訪ねました。
そこには、芭蕉庵跡という石碑があり、史跡になっていて地元の方々に、芭蕉稲荷神社として祀られていました。
右下「芭蕉記念館」入口
左「古池や蛙飛こむ水の音」の句碑
芭蕉は、この深川で、俳諧の芸術を確立しここを起点として、全国を旅し、最後には大阪で
☆「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 芭蕉
の句を残し、元禄7年1694年51歳で亡くなっています。
隅田川の夕景
記念館の庭から、隅田川河畔に出ますと、ちょうど太陽が沈んだ直後で、対岸のビルが黒いシルエットになっている風景の前を、隅田川がゆっくりと流れていました。
芭蕉は、さあ、これから奥の細道の旅に出発するぞという決意のみなぎる顔で、縁側に腰をおろしていました。
芭蕉はいままでに住んでいた芭蕉庵を引き払ってこの採茶庵に移っていたのですが、ここで、
☆「草の戸も住替る代ぞひなの家」芭蕉
という句を作っています。次に、小名木川にかかる萬年橋の近くにある芭蕉庵跡を訪ねました。
芭蕉稲荷神社
芭蕉庵跡
小名木川にかかる萬年橋からのながめ
芭蕉庵は、芭蕉没後に、武家屋敷に取り込まれ保存されていたのですが、幕末から明治にかけて消失し、所在不明になっていたとのこと。ところが、1917年の大津波の後、芭蕉が遺愛していた石の蛙が発見されたので、その場所を「芭蕉翁古池の跡」と当時の東京府が指定したそうです。
そこには、芭蕉庵跡という石碑があり、史跡になっていて地元の方々に、芭蕉稲荷神社として祀られていました。
最後に江東区芭蕉記念館を訪ねました。展示室には芭蕉の書簡などがあり、1階では、ビデオも見れるようになっていました。
右下「芭蕉記念館」入口
左「古池や蛙飛こむ水の音」の句碑
芭蕉は、この深川で、俳諧の芸術を確立しここを起点として、全国を旅し、最後には大阪で
☆「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 芭蕉
の句を残し、元禄7年1694年51歳で亡くなっています。
隅田川の夕景
記念館の庭から、隅田川河畔に出ますと、ちょうど太陽が沈んだ直後で、対岸のビルが黒いシルエットになっている風景の前を、隅田川がゆっくりと流れていました。
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