ツボスミレが咲き始めました。ツボスミレはスミレのなかではいちばん小さく直径が1センチもない花が咲きます。よく見るとむらさきのすじが入っていて、かわいらしくて、好きな花です。
ツボスミレが咲き始めました。ツボスミレはスミレのなかではいちばん小さく直径が1センチもない花が咲きます。よく見るとむらさきのすじが入っていて、かわいらしくて、好きな花です。
2,3日前から、「シュンラン」が咲き始めました。このシュンランは、我が家の東の土手の木の下に落ち葉に埋もれて自生していたのを、この場所に植え替えたものです。例年ですと3月末ごろに咲くのですが今年は、少し遅いようです。
塚本邦雄さんの「詩歌博物誌 其之弐」を読みました。この本は友人からのお奨めでしたが、もう絶版になっており、古本屋さんからネットで購入したものです。植物や詩歌に興味があるわたしにとっては、好きな本の1冊になりました。
塚本さんはこの本のモチーフとして、加藤三七子さんの俳句とともに、植物などを紹介なさっているのですが、「春蘭」にはこんな句が添えてありました。
「春蘭を移し植ゑたる庭の闇」・・・加藤三七子
加藤三七子さんの俳句は、初めて知ったのですが、「春蘭と庭の闇」の言葉の対比がおもしろいと感じました。加藤三七子さんの代表句を調べてみましたら、「抱擁を解くが如くに冬の濤」というすてきな句がありました。塚本さん好みの俳句のようにも思えました。
斎藤茂吉の春蘭の出てくるこんな短歌も紹介なさっています。
「わが友の春蘭(はるあららぎ)を描くそばにいでゆを出でし吾は真裸(まはだか)」
斎藤茂吉
斎藤茂吉は、春蘭を「はるあららぎ」と読ませているのですが、塚本さんは、失礼を百も承知でとことわりながら、こんな短歌にしたらと提案なさっています。
「わが友の春蘭(しゅんらん)を描くかたはらに温泉(いでゆ)出でたるわれ真裸(まっぱだか)」
春蘭を「はるあららぎ」と詠んだ茂吉の歌の本歌取りのようで、しかも歌人塚本邦雄の短歌にすっかりなっていると思いました。
春蘭は、かすかなしかし凛とした香りがあると塚本さんは書いていらしたので、わたしも早速、確かめてみました。
やはりほんのかすかにですが、あえやかな香りがしました。
つい先日まで雪が残っていた我が家の庭も、ようやく春めいてきました。庭の隅に自生しているキクザキイチゲが、今年もようやく咲いてくれました。春の妖精、スプリングエフェメラルです。
吉田健一さんの書かれた「交遊録」を読みました。吉田さんの本は好きで数冊持っているのですが、これは「英国について」と同じぐらい好きな本です。
60歳を過ぎたころに、いままでの人生で出会われた友人との交遊を書かれているのですが、人物描写がすばらしく、ユニークな自叙伝にもなっていると思いました。
吉田健一さんがケンブリッジで学ばれていたときの、キングス・コレッジのfellowだったデッィキンソンさん、そして直接に指導を受けられたキングス・コレッジのsupervisorのルカスさんのお二人の話は、ケンブリッジの教育とはこのようなものなのだという事が納得でき、興味深く読むことができました。
また、ルカスさんの影響で吉田さんが、ほかの数冊の本といっしょにプルーストを読もうと思われたというのも興味のあるお話でした。吉田さんの年譜を見ますと、帰国後にアテネフランセで、フランス語を勉強なさっていますし、ボードレールやヴェレリイもお好きだったようです。
わたしがこの本で好きなところは、吉田さんがお茶にルカスさんをお呼びしたときのエピソードです。
吉田さんが、凝った瀬戸物などを陳列しているお店で買われたという紺碧の紅茶茶碗でお茶をお出ししたところ、ルカスさんが「ウェエルスの山麓の矢車草と同じ色だ」とほめてくださったとのこと。
そういうエピソードは、プルーストの「失われた時を求めて」にもたくさん出てきます。女性の目の色を、矢車草にたとえたりとか・・。そういえば、吉田健一さんの長い文体もどこかプルーストに似ているのかもしれないと、密かに思ったのですが・・。
この本にはまた、わたしの好きなドナルド・キインさんのことも、書かれています。キインさんが最初に日本で住んでいらした京都時代の頃からの古いお知り合いのようで、キインさんが東京に来られたときには、いつもいっしょに飲みに行かれたり、家がご近所だった軽井沢でもごいっしょに飲んでいらしたとか・・。
キインさんのご専門の日本文学についての本を読んで驚かれたことが最初のきっかけだったそうです。吉田さんは、こういう奇跡的な本をキインさんが書かれたというのは、「愛があるからだ」と説明なさっているのですが、この「愛」という言葉がまたすてきで、吉田さんらしい表現だとうれしくなりました。
池内紀さんは解説でこの本のことを、「日本語で書かれた人物エッセイのなかで、とびきり個性的で、そしてもっとも優れたものだろう。」と、書かれていますが、私もまったく同感でした。
「交遊録」吉田健一著・講談社文芸文庫
※ 3月12日にプルーストの「失われた時を求めて」の翻訳者の高遠弘美さんの「最終講義」「読むことと書くことそれに訳すこと」をリモートでお聴きしたのですが、高遠さんも若い頃にお好きだった作家として、吉田健一さんのお名前を挙げていらっしゃいました。
3月16日の福島沖の地震の後、3月18日は春の雪が一日中降っていました。3月に入りあちこちに顔を出していたフキノトウも、突然の雪にびっくりしたのではと思います。雪をかぶって寒そうでした。
雪の一日、内田洋子さんの著書「モンテレッジョ小さな村の旅する本屋の物語」を読みました。内田洋子さんの本は、「ジーノの家」に続いて2冊目です。
題名に惹かれて読んだ本ですが、本好きのわたしにとっては、イタリアの童話のようにも思える不思議なノンフィクションでした。
始まりは、ベネツィアの冬で、サン・マルコ広場からの抜け道にある本屋さん。
そこはベネツィアに関するあらゆる種類の古い本が並べてある古書店でした。
ベネツィアに住むようになった洋子さんは、店主のアルベルトから、曾祖父がここで書店を始めたこと、そして、家系はトスカーナ州のモンテレッジョだというのを知るのでした。
モンテレッジョは、トスカーナ州にある緑豊かな山の中にある小さな村ですが、そこの人たちは、昔、生きるためにかごに本を入れ、売りにでかけたのだとか・・。
その話を聞いた洋子さんは、興味を持ち、この村を訪ねたのでした。
モンテレッジョの本の行商人は、名家の古い本や出版社の在庫などを引き取って、廉価で販売したりしていたとのことですが、後には売れる本を出版社に教えるまでにもなったようです。
その後、本の行商人は、各地に書店を作って定住するようにもなり、その一つが最初のベネツィアの古書店なのでした。
モンテレッジョという小さな村の旅する本屋の物語は、イタリアという国の本という文化を広める担い手のひとつでもあったのかもしれませんね。
この本の著者の内田洋子さんは、2020年にイタリア・本の露天商連盟から金の籠賞の記念メダルを贈られているとのことです。
今年は、例年になく雪が多く、昨年末からずっと、雪がとけずに残っています。ユキダルマもたくさん作ったのですが、これはかわいらしくできたので、写真に写しておいたものです。柏の葉っぱの帽子をかぶっています。
「モオツァルトを聴く人」谷川俊太郎詩集・絵 堀内誠一 小学館を、読みました。
2022年1月12日に発行されたばかりのほやほやの新刊です。友人から教えていただいた本ですが、最近はモーツアルトの曲ばかり聴いているせいでしょうか、読む本もモーツアルトに縁があるようです。
この谷川俊太郎さんの詩集はおもしろい構成になっていて、詩集の真ん中に「ピアノのすきなおうさま」という童話が堀内誠一さんのユニークな絵とともに挟んであるのです。
堀内誠一さんの絵もひょうきんで、色使いもきれい、何度見ても飽きない大人の絵本になっています。この絵本の部分だけ左から読むようになっているのもおもしろいです。
詩は、谷川俊太郎さんの30代初めから89歳までの作品とのことですが、前半の詩には、谷川さんの母上のことがところどころにちりばめて書かれていて、お母さまへの愛が感じられました。
人生のまだ最初の頃から谷川さんの人生には、音楽がありモーツアルトがあったようです。そして、モーツアルトの音楽の数小節に匹敵する詩を書きたいとずっと夢見ていたのだけれど、いくつかはあったような気がしていると、あとがきに書かれています。
谷川俊太郎さんの詩集を読むのは、「空の青さをみつめていると」「クレーの絵本」「音楽の肖像」に続いて4冊目です。
「空の青さをみつめていると」を開いてみましたら、何と以前に新聞から切り抜いた谷川俊太郎さんの詩を見つけました。
それはこの本のいちばん最初に掲載されていた詩「そよかぜ 墓場 ダルシマー」だったのですが、こういう偶然があったのは、とてもうれしく感じました。この詩にご縁があったのかもしれません。
詩をひとつ読んだり、CDを1曲聴いたりするのは、日々の暮らしとは違う時間をわたしたちにもたらしてくれると、谷川さんは文庫あとがきに書かれていますが、わたしの場合は、好きな音楽を聴いたり、好きな本や好きな詩を読むのは、人生の大きな楽しみのひとつになっています・・・。
わたしは2月生まれだからでしょうか、冬晴れのすみきった青空が大好きです。こんな青空にゆっくりと白い雲が流れていくのを見ていると、晴れ晴れとした穏やかな気持ちになってきます。
そして天空からモオツァルトの曲が聴こえてくるように感じるのは、最近、毎日のようにモオツァルトの曲ばかり聴いているからかもしれませんが・・。
わたしもむかし、小林秀雄さんの「モオツァルト・無常という事」を読んで、同じようにショックを受けたことがあったからです。
小林秀雄さんの「モオツアルト・無常という事」という本は、たしか古本屋さんで買ったものを持っていたはずと思い本箱で探してみましたら、ありました!すっかり古くなってしまい黄ばんでいて、文字も小さく読みにくいので、早速新しい本を注文して読み直してみました。
わたしが忘れられなかったのは、モオツァルトについての小林秀雄さんのこのような文でした。引用してみます。
「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」13pから引用
そして、もうひとつ
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡(うち)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。」45pと46pからの引用 (ト短調クインテットK516)
モオツァルトの音楽をこのように表現することができた小林秀雄さんを、江藤淳さんは「批評美学」と言われているのですが、その批評美学の方法に吉田秀和さんもショックを受けられたのだと思います。
さらにあとがきの解説で江藤淳さんは、この「モオツァルト」を読んだ読者は、モオツァルトのかなしい青のことを忘れないであろうとも言われていますが、わたしもその一人の読者になったのでした・・。
朝の散歩のときの雪景色です。木々の白い雪化粧は、数時間のいのち・・。お昼すぎには、マジックは消えていました。
見慣れたいつものベンチも雪の中で存在感を示し、絵になっていました!
しばらく散歩していると、ヤマツツジの枝にふわふわの羽毛が、ついているのを見つけました。数年前の冬の朝、白いフクロウを見たことがあるので、フクロウの忘れ物かなと思ったのですが・・・?
風に揺れている羽毛は、信じられないぐらいすてきで、しばらくの間、見惚れてしまいました。今年の冬のサプライズになりました!!!