京都・八坂神社の「祇園祭り」に行ってきました。梅棹忠夫さんの書かれた「梅棹忠夫の京都案内」によれば、葵祭が朝廷や貴族のお祭りだったのに対し、祇園祭は、町衆と呼ばれる人たちのお祭りとのことです。
真ん中は、八坂神社の御神輿
祇園祭は、7月のひと月の間という長いお祭りですが、7月17日がメインの山鉾巡行。そして、16日はその前日ということで、「宵山」になっています。
宵山の日中は、鉾と山を見て歩いたのですが、町内の古い町屋の座敷に飾られた屏風などを見るのも、楽しみでした。
「屏風祭」というそうですが、1年に1回、祇園祭の日に、みなさんに公開しているとのこと。
「屏風祭」というそうですが、1年に1回、祇園祭の日に、みなさんに公開しているとのこと。
夜は、四条通りが歩行者天国になり、大勢の人が八坂神社まで、楽しそうに散策していました。
17日の山鉾巡行
17日は、前祭りで、山鉾巡行が朝の9時から始まりました。
ひと月続くお祭りのクライマックスですが、今年から24日の後祭りもできたということです。
御池通りに桟敷をとって見物したのですが、稚児さんの乗った長刀鉾を先頭に、ゆるやかな巡行でした。
この稚児さんのことを生稚児(いきちご)というそうですが、小学生ぐらいの男の子でした。生稚児さんに選ばれた男の子は、本人はもちろんですが、ご家族も誇らしくうれしいことなのかなあと、想像したのでした。
鉾と山のまわりの飾りは、豪華絢爛で、「どやっ!」という心意気を見せていると、地元のおじさんに教えていただいたのですが、そういう心意気が、この祇園祭の醍醐味で遊び心なのかもしれません。
梅棹さんの本によれば、近世の京都には、海外貿易で資産を得たお金持ちの町人たちが住んでいて、そういう人たちが自分たちのいきおいを見せるために行ったデモンストレーションのようなものとかんがえればよいと書かれていましたので、祇園祭の行列が華やかになったというのは、そういう事情もあったのかと、頷けました。
鉾の上に乗って、コンコンチキチンをはやしていらっしゃるのは、町の旦那衆とのこと。
女の子の鷺踊り(四条通り)
日本の三大祭りは、東京の神田祭。大阪の天神祭。そしてこの京都の「祇園祭」ということですが、神田祭の起源は730年、天神祭りは、949年ということで、「祇園祭」も調べてみました。
「祇園祭歴史年表」によれば、「863年に疫病が流行したために、神泉苑において御霊会が行われ、その後869年に悪疫を鎮めるために、全国の国数66本の鉾を神泉苑に立てて祇園社から神輿を送り、これを祇園御霊会の始まりとした。」とのこと。
そもそもは、疫病を鎮めるために始まった祇園祭ですが、現代のわたしたちには、一見、悠長に見えるこのお祭りを、おもしろがって楽しむことが「あそび」に通じることなのかなあと思ったのでした。
それにしても暑かった~という祇園祭でしたが、コンチキチンという祇園囃子の音といっしょに、いつまでも記憶に残るお祭りになりました・・・。
真夏の京都、お疲れ様でした。湿気が多くて、独特のこもるような暑さで、身体に応えますよね。
返信削除祇園祭も、以前本社の会議で出張の際、ちょうど日程が重なって見る機会があったのですが、きらびやかでものすごくペースがスローで、江戸の威勢のいいお祭りを見慣れている目には随分間延びしたお祭りだなぁ、と映ったのを思い出します。それを都人は雅やかというのですよね(笑)
でも、現代の私達は、いい感じに色が抜けて味わいのある落ち着いた雰囲気の京都に魅力を感じますが、京都が正に都で文化の中心だった頃は、天皇家や貴族達が権力を誇示して、金銀螺鈿を散りばめた極彩色の寺社仏閣を建てた訳で、本来の平安文化の色調は祇園祭に見られるような、派手で豪華なものだった筈なんですよね。
一見中華的にも見えるかも知れませんが、沖縄の首里城に行ってみると、奈良や京都の朱は大和の朱で、中華の朱とは違うことを思い知らされます。首里城は、デザイン的にも色彩的にも中華・大和どっちつかずになるよう配慮(琉球は両方をうまく建てながらどっちつかずの外交をすることで何とか生きながらえてきた国なので)されているので、平安時代に唐の文化をベースにしつつ、日本独自に発展した国風文化との違いが分かって面白いですよ。
貴重なコメント、ありがとうございました。コメントを頂けるとは思ってもおりませんでしたので、お返事が大変遅くなり、お詫びいたします。平安文化の色調のことまでは、思い至りませんでした。たしかに祇園祭は派手で豪華ですよね。奈良や京都の朱は大和の朱、中華の朱とは違うとのこと、何となく納得しました。
返信削除