2019年9月18日水曜日

読書・「方丈記私記」堀田善衛著  




 昨日の散歩のときに、ツリフネソウが群れていっぱい咲いているのを、見ました。釣舟とは、舟の形をした花器のことで、床の間の天井からくさりで吊り下げるもののこととか・・。花の形がその釣舟に似ているというので、「ツリフネソウ」という名前が付けられたということです。



 堀田善衛さんの書かれた「方丈記私記」を、久しぶりに読み返してみました。改めて読んでみると、やはり名著だなあと再認識しました。
 堀田さんは、東京大空襲を経験なさっているので、そのときの体験から方丈記に書かれている京都の大火災の様子にふれて考察を始められています。

 


  当時は、大火ばかりではなく、地震やつむじ風などの天災も多く、世の中も乱れていて、大変な時代だったようですが、鴨長明はそのような時代を現実的に生きたというのを堀田さんは強調なさっています。
 
 わたしが興味を持ったのは、定家などの歌壇の歌論にも触れられていることです。当時の現代語の拒否と、本歌取りなどは、新古今集の和歌も、そうなのですよね。
 


 そしてさらに、この本歌取りの文化は、わたしたちの文化と思想の歴史の中に生き続け、創造よりも伝承になり、花道、茶道、剣道、柔道、そして、学問や神道にまで及んでいるのではと、論考なさっています。

 このことから、堀田さんは、日本人の深部にある日本文化の伝統主義的なものに対しての批判にまで、暗に触れられているのは、おもしろいと思いました。

 最後にこう締めくくられていますので、引用させていただきます。

「そうしてかかる「閑居の気味」は、中世芸術家たちの憧憬の対象となり、またまた、今度は鴨長明自体が本歌取りの対象にされてしまう。」
                  (方丈記私記の237pからの引用)

 


           「方丈記私記」堀田善衛著・ちくま文庫


 





























2019年8月27日火曜日

読書・古今和歌集 秋きぬと・・・



 8月8日は、立秋でした。
 きょうは、8月27日で、わたしの住むこの辺りでは、朝夕大分涼しくなり、もう夏も終わりだと、しみじみと感じるようになりました。
 今朝は、早朝に目が覚め、庭に1本だけ咲いている桔梗の花を見に、庭に出てみました。



「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」
                     藤原敏行朝臣

 あまりにも有名な古今和歌集の秋歌上の最初に出ている歌ですが、この季節になると、いつも口ずさんでしまいます。このブログでもこの歌は、以前に2度ご紹介しています。
 



古今和歌集のこの歌のひとつ前には、こんな歌が載っていて、これもわたしの好きな歌です。

「夏と秋と行きかふそらの通路(かよひぢ)は かたへすゞしき風やふくらん」


 夏と秋が行きかっている空の道では、かたほうの空では涼しい風が吹いているのでしょうという、おしゃれな歌です。




 古今和歌集の前文の仮名序には、「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろず)の言(こと)の葉とぞなれりける。」と、書かれていますが、日本の和歌は日本人のこころの言葉なのだと、このような歌を読むと、実感できるようになりました。

ドナルド・キーンさんが、ケンブリッジ大学で日本語を読む学生は、「古今和歌集」の序(仮名序)から勉強をはじめたと何かに書かれていたのを、ふと思い出しました。




 「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」

 やはり、いい歌だとしみじみと思います・・。





2019年8月17日土曜日

読書・「二老人」レフ・トルストイ著





  今年はヤマユリの開花が遅れ、7月下旬頃から本格的に咲き始めました。8月の半ばの今は、もうほとんど終わりかけていますが、きょうの散歩のときに、最後のヤマユリが1本の茎に10個も花をつけているのを見ました。下の写真は、先月の7月25日の咲き始めの頃の写真です。
   この日本の野山に咲く大輪の見事な「ヤマユリ」を見ていると、今年も咲いてくれてありがとうと、声をかけてしまいました。香りがまた芳醇なのです・・。




   先日、トルストイの映画「終着駅 トルストイ最後の旅」を観たのですが、トルストイの妻ソフィアとの確執や、最後の家出の旅先での死を想うと、久し振りにトルストイの本が読みたくなり、「二老人」を、読んでみました。

 この本は、二人の老人の生き方が書かれている民話です。二人の老人が、エルサレムまで巡礼の旅に出るのですが、それぞれにどのような旅をしたかというお話しです。素朴なストーリーですが、読後には、深い真理が感じられるようになっていました。




 本の訳者の北御門二郎さんの「訳者のことば」が、本の後ろに書かれているのですが、興味深い内容でした。
 北御門さんは、トルストイの「芸術は一部の人のものではなく、みんなの心の交流の場であるべきという考えや、非暴力主義」などのトルストイの考えに深く共感し、この民話を翻訳したということです。そして、そのようなトルストイの考えは、その後の彼自身の人生の生き方までも変えてしまったとのことでした。




 トルストイは、1828年に、ロシアの伯爵家に生まれ、幼い時に両親を亡くしています。
 「トルストイの生涯」というロマン・ローランの本によれば、トルストイは、どのように生きればよいのか悩んでいたときに、「幸せであろうとすれば、他人のために生きなければならない」という真理を発見したとのことですが、この言葉は、「二老人」の民話にも、通じている考えなのだと思いました。
 



トルストイは、その真理を、彼自身実践して生きるのは、とても難しかったようですが、トルストイ主義とも言われる彼の考えに共感し、影響を受けた人は、日本にもいて、この「二老人」を、訳された北御門二郎さんも、その「おひとり」だったようです。
 
「二老人」は、素朴な民話ですが、トルストイのことをいろいろと考えることができた読書でした・・・。



       「二老人」レフ・トルストイ著 北御門二郎訳 あすなろ書房


 





 
 

 

  
 

2019年7月30日火曜日

美術館・「マリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展」 (アルベルチーヌが着ていたフォルチュニーのドレス・・)


 



 丸の内にある三菱一号館美術館に、「マリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展」を
見に行ってきました。




 この赤いレンガ作りの美術館の入り口前は、すてきな広場になっていて、好きな場所です。暑い夏の午後の陽ざしが木々の影を、少し揺らしていました・・。




     プルーストの「失われた時を求めて」には、主人公の恋人のアルベルチーヌが着ていたフォルチュニの青と金の部屋着やダークブルーのコートが、出てきます。そのアラビア風の装飾の部屋着は、主人公にヴェネツィアを、想起させるのでした。そんなフォルチュニのドレスとはどんなものだったのか、そしてそのドレスを作った人は、どんな人だったのでしょうか。




 デザイナーの名前は、「MARIANO FORTUNY」です。このマリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展では、フォルチュニと書かれていたのですが、小説の中では、フォルトゥーニとなっていました。

 フォルチュニは、1871年にスペインのグラナダで生まれています。その後、画家の父のアトリエのあるローマに住み、父の死後はパリに住んで画の勉強をしていたようです。17歳のとき、ヴェネツィアに移住した後は、ワーグナーのオペラの場面などの製作や、フォルチュニの型の製作も始め、テキスタイルのプリント工房をかまえて、「デルフォス」と呼ばれる絹のプリーツを、開発したようです。




 フォルチュニの軽くてしなやかな「デルフォス」と呼ばれる絹の繊細なプリーツを施した生地のドレスは、紫や緑、アイボリー、錆びた朱色や、黒などが展示されていて、見事でした。 いまでも充分に着ることができるデザインだと、思いました。上記の写真の左の内側のドレスと真ん中の黒のドレスがそうです。右は、ステンシルプリントと絹ベルベットのフード付きケープですが、多分アルベルチーヌの着ていたコートもこんな感じだったのかなと、想像しました。




 フォルチュニとプルーストは、1871年と同じ年に生まれていますので、ほとんど同じ時代を生きたようです。フォルチュニはデザイナーとしてだけではなく、版画家、舞台芸術家、写真家でもあったのですが、彼自身は、画家と語っていたということです。ヴェネツィアで暮らしていた屋敷は、いまは、フォルチュニ美術館となっていて、その屋敷で使用されていた吊りランプや、彼の絵や写真なども飾られていました。




 会場で、2016年春のヴァレンチーノの「フォルチュニへのオマージュ」という
ファッションショーの録画を見たのですが、繊細でゴージャスなドレスは、とてもすばらしく、見惚れてしまうほど見事でした!!!

  プルーストの小説にも出てくるようなフォルチュニのドレスの系譜は、見事にヴァレンチーノへと、受け継がれているのですね・・。






2019年7月24日水曜日

読書・「海に住む少女」シュペルヴィエル著




 7月19日から、ようやくあのカナカナカナ~と鳴く「ひぐらし」の声が聞こえるようになりました。
 昨日の散歩のときに、かわいらしいうすべに色のアジサイを、見つけました。
   今年さいごのアジサイです。
 


  不思議な本を、読みました。
 「海に住む少女」シュピルヴィエル著・永田千奈訳・光文社古典新訳文庫です。

 ジュール・シュピルヴィエルは、詩人ですが、彼の詩は、以前から好きでした。このブログにも、彼の詩「樹」を、昨年の11月に紹介しています。
 そんな詩人の彼が、本も書いていると知り、読んでみた本です。




 この本には、短い小説が10編載っているのですが、私はその中で、この本のタイトルにもなっている「海に住む少女」が、一番こころに残りました。

 主人公の少女が、海に浮かんでいる蜃気楼のような街に、たったひとりで住んでいるという不思議なお話しです。そして、読者には、彼女のさみしい孤独な生活の理由が、最後にわかるようになっています。
 
 童話のようになにげない文で、やさしく書いてあるのですが、不思議な世界にひきこまれてしまいました。シュピルヴィエルの死生観が感じられる哀しく切ない物語でした。




 ジュール・シュペルヴィエルは、1884年にウルグアイのモンテヴィデオで生まれていますが、両親はフランス人です。幼い時に、両親がなくなり、ウルグアイに住んでいた叔父にひきとられ育ててもらうのですが、教育はフランスで受けています。

 彼はフランス語の、詩集や、長編小説4冊、戯曲3編・短編小説などを残しているようです。ウルグアイで暮らしていたのですが、62歳のときにフランスにもどり、76歳で、フランスの詩王(プランス・デ・ポエット)の称号を受け、同年の1960年、76歳で亡くなっています。

 シュペルヴィエルのこの本は、読む人の琴線にふれる何かを、残してくれているように、思いました。




2019年7月18日木曜日

読書・もう、1冊の「消え去ったアルベルチーヌ」高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫




  連日の雨で気温が低く、太陽を見ない日が続いているのですが、散歩の時に、太陽のように輝いている花を、見つけました。キンシバイの園芸品種で、ピペリカムヒドコードという難しい名前の花です。梅雨のこの季節に、元気をもらえるような花でした。




 岩波文庫の吉川一義訳の「失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ」を読み終えたばかりでしたので、比べてみようと思い、大分以前に読んで本箱にあったこの本を、再読してみました。

「消え去ったアルベルチーヌ」プルースト 高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫です。

 


 この縮小版は、プルーストが死の直前に手を入れたタイプ原稿で、1987年に発見され、グラッセから出版されているので、グラッセ版と言われているようです。

 このグラッセ版は、「消え去ったアルベルチーヌ」の四分の一ぐらいに大幅な削除がなされています。そのせいか、わたしにとってはとても読みやすく、一気に読んでしまいました。従来の「消え去ったアルベルチーヌ」よりも、こちらの方がよりプルーストの意図が明白になっていて、おもしろく読むことができたように思います。




 ただこのグラッセ版の発見のおかげで、翻訳する方は、この第六篇の「消え去ったアルベルチーヌ」の部分を、全体の中でどう位置づけるのか、いままでの自筆の原稿やタイプ版などとも比較して校訂の難しい選択をせまられることになってしまったようです。

 それにしても、いままでは、フランス語圏のみで読まれていたこのグラッセ版を、日本語の翻訳で読めるようになったというのは、わたしのようなプルーストファンとしては、しあわせなことだと思いました。




 ※このグラッセ版の「消え去ったアルベルチーヌ」を訳された高遠弘美さんは、いま、光文社古典新訳文庫で「失われた時を求めて」の全巻の翻訳にとりくんでいらっしゃる途中です。わたしは、最初の2冊まで、読んだのですが、全巻翻訳の完了を期待しております!


2019年7月14日日曜日

読書・「失われた時を求めて」12消え去ったアルベルチーヌ プルースト作 吉川一義訳 岩波文庫




 今年の梅雨はとても長く、肌寒いような天気が続いています。この辺りに自生しているヤマホタルブクロも例年より開花が遅く、長く咲いているように思います。
 


 「失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ」プルースト作・吉川一義訳・                       岩波文庫を、読み終えました。

 この巻では、話者が いっしょに暮らしていた恋人のアルベルチーヌの突然の失踪と、それに続く彼女の事故死。失踪前には、別れようとさえ思っていたアルベルチーヌを、話者は、実は本当は愛していたのだと知るのでした。
 そして、母との念願だったヴェネチィアへの旅が、語られています。



 話者は、アルベルチーヌの失踪と事故死の後、喪失の痛手はもちろんですが、彼女が同性愛だったのではという疑惑と嫉妬にもかられるのです。その恋愛感情の推移と機微が、プルーストらしい筆致で心理分析し、数百ページにもわたり、繊細に書かれています。でも、やがて次第に、時がそれを癒してくれるのでした。
 



 プルーストは、実際の人生でも、同居していたアゴスチネリという美貌の運転手の愛人の失踪と事故死を経験しています。このことは物語の中のアルベルチーヌの失踪や事故死にも、取り入れられているようで、この巻の後ろの付録に、アゴスチネリに送ったプルーストの興味深い手紙が、載せられています。



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「人は、たったひとつの微笑みやまなざしや肩などに惹かれて恋に陥る。それだけで充分なのだ。」
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 これは、254pに書かれている文の引用ですが、わたしがこの巻の中で一番惹かれた文章です。

 話者もアルベルチーヌの微笑みやまなざしに惹かれて恋に落ちたのでしょう。そしてそれだけでもう、充分なのだと言っています。




 この巻でも、プルーストの心理分析は見事だと思いました。アルベルチーヌとの恋の想い出の抒情的な散文もあちこちにちりばめてあり、わたしの好きなところでした。