2019年7月3日水曜日

植物・美しすぎるわくら葉・・



 本格的な梅雨のシーズンに入りました。
 雨の合間をぬって散歩していると、はっとするほどきれいすぎる桜のわくら葉が、道に散り敷いていました。




  わくら葉は、病葉と書くのですが、辞林で調べてみると、「病気で枯れた葉。特に夏、赤や黄に変色して垂れたり縮まったりした葉。」と、書いてありました。

 赤や黄の葉っぱの色は、紅葉ではなく、病気で枯れた葉なのでした。わたしは毎年この季節に桜の葉が紅葉して散り敷くのを不思議に思っていたのですが、それはわくら葉だったのです・・。




 わくら葉は、俳句では夏の季語だとか。
 木々はすべて緑の夏のこの季節に、こんなにきれいな葉を見せてくれるのは、自然界のいたずらのようにも思えてきます。
 




 見上げてみると、緑の葉っぱの中に、たった一枚のわくら葉だけが、もの言いたげに下がっていました。


 
 
 わくら葉は、すべて緑の世界の中で、じっと何かに耐えているようにも、見えたのでした・・。



2019年6月27日木曜日

植物・アジサイの季節・・(六義園のアジサイに思うこと・・)




 先日、六義園にアジサイを見に行ってきました。六義園は、木々の緑が目にやさしく、ブルーのアジサイが、ひときわすてきに輝いていました。




 まず最初に、入口のところに「オタクサ」と書かれた青い手まり型のアジサイの鉢植えが、置かれているのが、目に入りました。




 シーボルトが日本人女性のお滝さんから名前をとってアジサイにオタクサという名前をつけたのは知っていたのですが、このような日本原産のアジサイからヨーロッパでは、品種改良されたセイヨウアジサイが生まれたのだとしみじみと、見てしまいました。





 家に戻ってから調べてみると、シーボルトがこの花にオタクサと名前をつけた以前に、すでに別の人によって学名が記載されていたようで、いまではもうこのオタクサという学名はないということです。でもオタクサという名前は、シーボルトのお滝さんへの想いが込められているようで、なぜかロマンを感じたのでした・・。

 



 シーボルトよりも100年ぐらい前に、中国から(日本のアジサイ)を、イギリス人がキューガーデン(キュー植物園)に持ち込んだということですから、イギリス人の植物熱もすごかったのだと実感したのですが、現代でも、プラントハンターは活躍しているようです・・。




 六義園のアジサイを見ていると、花にまつわるいろいろなことが想像され、夢が広がっていくようでした。日本固有のアジサイは、やはり梅雨のこの季節に似合う花のようです・・。














2019年6月9日日曜日

読書・「紅茶と薔薇の日々」森茉莉 早川茉莉編 ちくま文庫     (日日の中の愉しさは詩である・・・)




 雨の中の散歩の途中で、すてきなピンクのオールドローズに出会いました・・。

 ピンクのオールドローズは、雨に濡れてもよりあでやかに詩情を感じたのは、先日読んだ森茉莉さんのエッセイの余韻が残っていたからでしょうか・・。
 



 そのエッセイが載っていたのは、先日、仙台の丸善に寄ったときに、タイトルに惹かれて購入した森茉莉さんの「紅茶と薔薇の日々」という本でした。

 この本は、早川茉莉さんが選んだ森茉莉さんの食に関するエッセイを集めたものです。

  



 わたしはいままで、森茉莉さんの本は、小説以外のエッセイが好きで、以前にはだいぶ読んだ記憶があるのですが、その中でも、特に「幼い日々」というエッセイは、読むたびにいつも胸がきゅんとなるような、忘れられない文なのです・・。
 





 それは、茉莉さんが子供時代を過ごされた千駄木の家での幸せだった日々のことが綴られている文なのですが、あのように幸せな子供時代を過ごすことができた茉莉さんは、その後の人生でも、日々の生活の中に小さな楽しみを見つけることができる人生の達人になられたような気がしてなりません。

 本の中で、茉莉さんは、「日日の中の愉しさは、詩である」と言われていますが、彼女らしいすてきなお考えだと思ったのでした。




たとえば、
 銀色の鍋の中で泡立つ湯の中の白い卵を見ていると、歌いたくなったり、
       海の色のようなガラスのびんを見ていると、
         ボッチチェリの画の海の色が浮かんできたり・・・
                    などなど。





  「日日の中の愉しさは、詩である。」という彼女の人生感はすてきで、とても共感するのですが、やはり、幸せな子供時代を過ごされた茉莉さんならではの、人生哲学のようにも感じたのでした・・。
        




2019年6月7日金曜日

読書・「ワーズワース詩集」前川俊一訳 彌生書房 (ワーズワースのカッコーの詩)




 今年初めてカッコーのなき声を聞いたのは、5月26日でした。朝早く庭に出た時に、遠くの方でかすかに「カッコー」とないているのが聞こえてきたのです。
 わたしはこの季節にはいつも「カッコー」の初めてのなき声を聞くと、とてもうれしくなり、こころがワクワクしてきます。



 カッコウの声をもう少し身近で聞いてみたいと思い、昨日は標高の高いところにある牧場まで行ってきました。
 さわやかな風の吹き渡る高原は、見ているだけでも気持ちが良かったのですが、思っていた通りカッコーのなき声が、広い牧場に響き渡っていました・・。




 ワーズワースの詩に 「To the Cuckoo」「郭公に」という、わたしの気持ちを歌っているような、すてきな詩があります。その詩の最初のところで、ワーズワースは、はじめてなくカッコーのことを「O  BLITHE  New-comer !」と、言っています.
  「こころが浮き立つような新しく来たお客さま」なのですね!!!





   日本語訳は、彌生書房出版の世界の詩37「ワーズワース詩集」に前川俊一訳が出ていますので、引用させていただきます。



・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

「郭公に」
             ウィリアム・ワーズワース  前川俊一訳

おう、快活な新来の客よ、かってきいた君の声を
いま聞いて僕はうれしい。
おう、郭公よ、君を鳥と呼ぼうか
それとも君はさまよえる声か。

僕が草上にねそべっていると
君の二声(ふたこえ)の叫びがきこえて来る。
丘から丘へとその声はすぎ行くようだ。
ここかしこ、いたるところに。

日光と花の便りを
谷間に喋りつづけるだけでなく
郭公よ、君は僕に
幻ゆたかなりし日を語ってくれる。

ようこそ見えた、春の寵児よ。
君はいまもって、僕にとっては
鳥でない。目に見えぬあるものだ。
声だ、神秘だ。

私が学童の時分に
耳すませたのと同じ声だ。
藪を、木を、空を、ここかしこ見廻らせた
あの呼び声だ。


君を捜そうとして、僕はよく
森や野をたずねあるいた。
君はいつも希望であり、愛であった。
常にしたわれながら、姿を見せぬものだった。

僕はいまでも君に耳かたむけられる。
原っぱに寝そべって
耳すませていると、いつしらず
幼なかりし日の喜びがよみがえって来る。

鳴呼、しあわせの鳥よ、僕等のあゆむ大地が
まぼろしの仙女国であるかのような
感じがまざまざと蘇って来るのだ。
それこそ君にふさわしい住家だ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
 引用 「ワーズワース詩集」 前川俊一訳 彌生書房 115p~117p



 前川俊一さんは、「O Blessed Bird!」を、「しあわせの鳥」と訳していらっしゃいますが、わたしにとってもカッコーは、鳴き声を聞くだけで、しあわせな気分になれる鳥なのかもしれません・・。
     

2019年5月30日木曜日

読書・「失われた時を求めて11」囚われの女Ⅱ プルースト作 吉川一義訳 岩波文庫  (本当の旅とは・・・)




 「失われた時を求めて」11囚われの女Ⅱ プルースト作・吉川一義訳・岩波文庫
を、読みました。




  この巻で一番印象に残ったのは、154pと、155pのプルーストの旅についての彼独特の考察です。プルーストは旅について、このように書いていますので引用してみます。



・-・-・-・-・
「ただひとつ正真正銘の旅、若返りのための唯一の水浴は、新たな風景を求めて旅立つことではなく、ほかの多くの目を持つこと、ひとりの他者の目で、いや数多くの他者の目で世界を見ること、それぞれの他者が見ている数多くの世界、その他者が構成している数多くの世界を見ることであろう。」
・-・-・-・-・
引用 「失われた時を求めて」11囚われの女Ⅱ プルースト作 吉川一義訳 岩波文庫         154p~155p




 プルーストのこの旅についての考察は、プルーストの名言としてもよく知られているのですが、わたしもこの考えには全く同感です。




 「ただひとつの正真正銘の旅は、新たな風景を求めて旅立つことではなく、ほかの多くの目を持つこと・・」 なのです・・。




 上の風景の写真は、昨日の5月29日、散歩のときに写したものですが、5月の軽やかな風にのって、大好きなカッコーの鳴き声が、高原に響いていました。いつもの見慣れた風景でしたが、なぜか、プルーストの言葉が思い出されたのでした・・。
 




2019年5月28日火曜日

映画・「ジュリアス・シーザー」 ジョセフ・マンキウィッツ監督 (英語のチンプンカンプンとは?}




 散歩の途中、ご近所の庭に咲いていた「ヤグルマギク」に出会いました。わたしは子供のころからなぜかこの花が大好きでした。

 ヤグルマギクは、フランスの国旗の青とのことですが、いつもかわいらしいフランスの少女の瞳を思い浮かべてしまいます・・。
 



 先日、ジョセフ・マンキウィッツ監督の映画「ジュリアス・シーザー」を、観ていたら、少しおもしろいことがありました。

 この作品は1953年製作で、少し古いのですが、原作はシェークスピアということもあり、劇を見ているようで、英国のすばらしい名優で故人となったジョン・ギールグッドの演技にも、さすがと思い見惚れていました。




 しばらくすると映画の中で、「It`s was  Greek to me」というセリフが聞き取れたところがあったのですぐに、「あれだ!」とひらめいたのですが、それは、昨年の英語の日めくりカレンダーに出ていた言葉でした。
 日本語では、「チンプンカンプンです」と訳されていました。




 そして、この言葉は、「ジュリアス・シーザー」に出てくるセリフなので、シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」の本を出して調べてみたところ、27pに出ていました。第一幕第二場のCasca(キャスカ)の言葉です。

・-・-・-・
「このおれには、文字どおり、ちんぷんかんぷんのギリシャ語だった。」
・-・-・-・
      引用 ジュリアス・シーザー シェイクスピア 福田恆存訳 新潮文庫 27p





 また、チンプンカンプンという言葉の語源を調べてみたところ、中世ラテン語の
 Graecum est; non potest legi 「それはギリシャ語で読むことができない」
だそうで、シェークスピア以前からあったようです。

 そして、これを英語の言葉として使用したのは、シェークスピアで、彼の作品の「ジュリアス・シーザー」(1599年)の中の、記のキャスカ(Casca) のセリフなのでした。

 おもしろいですね・・。

 大分以前に、ギリシャに旅したときに見たスーニオンの岬の夕焼けまで、思い出してしまったのですが、楽しい映画の効用でした・・・。



2019年5月20日月曜日

読書・「赤光」斎藤茂吉著 新潮文庫 (茂吉の歌の「をだまき」・・)





  オダマキの花の咲く季節になりました。
 今年はヤマオダマキの花の当たり年のようで、散歩をしていますと、道路の縁などに群生して、たくさん咲いているのを見かけます。
    

 
  この写真のオダマキは、日本に自生しているヤマオダマキです。
 ヤマオダマキを見ていますと、色あいが地味で床しい花だとしみじみと思います。


ところで、斎藤茂吉の歌集「赤光」には、母への歌がいくつか歌われているのですが、その歌の中の二首に、オダマキの花が出てきます。




  こんな歌です。
  
 「山いづる太陽光を拝みたりをだまきの花咲きつづきたり」 斎藤茂吉

「死に近き母が目に寄りをだまきの花咲たりといひにけるかな」 斎藤茂吉

 


 歌集「赤光」の中にある茂吉の母への歌は、この表紙の絵にあるように、ツバメの歌は覚えていたのですが、今回読み直してみて、オダマキが2首もあることに気づきました。

 この歌に歌われている「をだまき」は、ヤマオダマキではなく、薄紫のミヤマオダマキということです。